はじめに
明石海峡、住吉大社、天照大神高座神社 が同緯度で直線で繋がる理由を考えていると #天照大神 #八幡大菩薩 が出会う歴史の変わり目と、その時代の様子が垣間見えます #阿弥陀如来 #薬師如来 #本地垂迹 #法隆寺金堂 #石清水八幡宮
目次
本文
【摂津・河内平野 二本の【太陽の道】が指すところ。明石海峡】
宇佐八幡(大分)をはじめ北部九州を本地とする 八幡大菩薩・応神天皇(第15代)。
母を神功皇后*1、父を仲哀天皇(第14代)とし、このファミリーを頂く勢力は、瀬戸内海の西からやってきて、前期とは画期される古墳時代中期、西暦400年代の大古墳時代の歴史を創りました。
3つの本宮が東西一直線に並ぶ住吉大社*2(個人的に男神ラインと呼んでいます)は、おそらくこの時期に創建され、創健者たちは、自分らの故郷、明石海峡の向こうの瀬戸内海を遥拝する祭祀を始めました。
信貴山につながる高安山麓の 天照大神高座神社 と 住吉大社(本宮) が同緯度に並ぶ理由として、
この太陽の道は、天照大神と八幡大菩薩を結ぶ ことを暗示していると考えます。
実は、このような二柱の結びラインは 石清水八幡宮 で見ました。
方形の本殿域の東総門を下ったところに、 細橋(ささやきばし)。
伊勢遥拝所の灯篭に向かい合うこの石橋で、 天照大神と石清水八幡宮の御祭神・八幡大菩薩が、この国の行く末を話し合うために会合する所と、神社で伝えられています。
法隆寺金堂では、東に薬師如来②、西に阿弥陀如来③で、御本尊(釈迦三尊)を中心に左右に対応する配置。
神仏習合時代の本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説で、西方極楽浄土の阿弥陀如来は、八幡大菩薩(八幡神)と同一視されています。
天照大神は大日如来と同一視されることが一般的ですが、本地垂迹は地域・時代・神社仏閣によりケースバイケースなもので、比較的よく見られるのが、東に薬師如来のパターン。
法隆寺金堂諸仏の制作時の意図はわかりませんが、内陣に諸仏が配置された時点で、薬師如来は、東(朝の日の出)の天照大神と同一視されていたと考えることができます。
密教(真言宗など)では、薬師如来は『自らの光明で無量無類の世界を照らし、すべての人びとを仏にする』という神仏格があり、アマテラス的な神格として受け止められています。
(続きます)