はじめに
現在の #大阪城 は昭和〜平成に、ほとんど再築された鉄筋コンクリート製。その前には #豊臣期天守(約40m)#徳川期天守(約50m)が存在しました。昭和時代に発掘された豊臣期天守の古い石垣遺構を恒久的に見学できる施設が建設中
目次
本文
織田信長公は、石山本願寺に対する実質的な勝利となる石山合戦(1570~1580)和議の後、どういうわけか、水運・陸運に恵まれた石山(大坂)に城を築かぬまま、本能寺の変(1582)で死亡。
明智光秀を討ち、賤ケ岳の戦い(1583)で柴田勝家を滅ぼし、天下統一を果たした豊臣秀吉公は、石山本願寺の跡地に大坂城(豊臣期)の築城を真っ先に始めました。
・・・まるで、それが当初の目的であったかのように。。。難波大阪の発展はその後の歴史が示す通りです。
1583年竣工〜1598年完成という大工事を経て完成した豊臣期天守は、大坂冬・夏の陣(1614・1615)で、徳川家康公により破却され、地中深く埋められてしまいます。
家康公亡き後、徳川第二代将軍・秀忠が、約10年をかけて天守を再築(1620~1629)。それが徳川期天守。
ただ、この徳川期天守も1665年、落雷が原因で焼け、その他の建物も明治維新の動乱で失われました。
現在、私たちが目にしている大阪城は、昭和・平成の二回、徳川期の石垣遺構に、鉄筋コンクリートの天守閣を築いたものです。
大阪城 豊臣石垣公開プロジェクト
昭和34年(1959)、現在の天守閣の東側の地下で、秀吉公が築いた時代の天守閣の石垣が発見され、以降、数次の発掘調査を経て、ついに、豊臣期天守の石垣公開プロジェクトが発動しました。
昨年、期間限定で発掘作業中の石垣が一部公開されましたが、現在は、地中の石垣遺構を恒久的に見学できる施設が建設中です。
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個人的には、古い時代より、この地には 古代祭祀の磐座(いわくら、大石)がゴロゴロしており、それゆえに 石山 と名付けられたといい、またそれらの大石を利用して石山本願寺、さらには、豊臣期石垣が築かれたという説にロマンを感じており、いつの時代か、その真偽が確かめられるのを楽しみにしています。