はじめに
奈良盆地の真ん中、大和川の畔の #村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)通称 #村屋神社。#ヤマト創世記 を考える上で情報量の多い神社で2回に分けて紹介。1回目は御祭神 #三穂津姫命 に埋め込まれた #物部氏 のこん跡
目次
本文
村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)
(34.5484511937988, 135.81745960916683)/奈良県磯城郡田原本町藏堂426番地/近鉄橿原線 田原本駅から東へ約2.5キロ。JR桜井線 巻向駅から西へ約2キロ。専用駐車場あり
御祭神:【主神】三穂津姫命(みほつひめのみこと)【配祀神】大物主命(おおものぬしのみこと)
御由緒)主神三穂津姫命は、高皇産霊命(たかみむすびのみこと)*1の姫神で大物主命*2が国譲りされたとき、その功に報いるためと、大物主命に二心がないようにという願いから自分の娘を贈られたという神話に出てくる神である。この故事から、縁結びの神、家内安全の神として信仰される。大物主命は大神神社(おおみわじんじゃ)の主神であることから、その妃神である当社にも大物主命を合祀して三輪の別宮とも称せられた。天武天皇元年(673)壬申の乱(じんしんのらん)のとき、村屋神が神主にのりうつり軍の備えに対する助言があったという。この功績によって、神社として初めて天皇から位を賜ったと日本書紀に記されているほどの名神である。現在正一位森屋大明神の呼称が残っている。境内には「町の木」であるイチイガシの巨樹が林立し、この樹そうは奈良県指定天然記念物となっている。田原本町
村屋坐弥冨都比売神社 境内
三穂津姫命・考
御本殿を含む境内のお社に、それぞれ御祭神を説明するカラフルなパネルが掲示されています。
(いきなりですが)出雲伝承(口伝、斎木雲州氏)では、三穂津姫(みほつひめ)の親神とされる高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は 物部氏の母神 とされています。
当社を物部氏と関連づける一つめの根拠として、当社の正式な読み。むらやにいますみ ふつ ひめじんじゃ。
御祭神・三穂津姫から考えると みほつひめ でよいはずなのに、わざわざ?物部氏の言霊(ことだま)フツ 音が埋め込まれています。
(フツは剣つまり武力を表し、フルは鈴つまり祭祀力をあらわす言霊)
物部氏系の神社では、経津主神(ふつぬしのかみ)など、フツ音が頻出します。
神様パネルでは、大国主命の後妻とされ、三本の穂を持つ美しい(かわいい)感じで描かれていますが、もし持っているものが三本の剣(フツ)なら、イメージが逆転しますね😅
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三穂津姫命の神様パネルでもうひとつ。
先妻は国津神の娘・須世理姫命と書かれていますが、問題はその読みのふりがな。
すせりひめ のはずですが、せおりつひめ と書かれています。
鈴鹿権現、遠野(早池峰)、上賀茂・下鴨、門司(和布刈)など各地にあらわれる 瀬織津姫 は、早くても奈良時代からあらわれたと考えられる謎の姫神ですが、この見解(読み)は初見。今後の宿題です。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味になる。出雲の美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られている。丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市)では大国主神とともに主祭神となっており、大国主神の后とされている。三保の松原(静岡市清水区)の入り口にある御穂神社も同様に、大己貴命(ここでは別名を三穂津彦命(みほつひこのみこと)としている)とともに祀られており、「羽衣の松」と縁が深い(御穂津彦命、御穂津姫命という表記もあり)。村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となっており、大物主神の后とされている。
大国主命(大物主命)の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を中津国に広めたと謂われる三穂津姫命。后という漢字は正妻の意味です。大国主命の正妻といえば 須世理姫神 を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、中津国の姫神が正妻であるのは信用ならぬと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降ったという謂われもあるようです。多くの妻を持った大国主大神の最期の妻であり、天津神と国津神を繋ぎ結んだ姫神であり、新しい時代の始まりの象徴の様にも感じます。