ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【孝霊天皇 黒田廬戸宮跡】吉備津彦 桃太郎生誕の地伝承【法楽寺】

はじめに

万葉集で桃の名所と詠われた田原本町奈良県)に #考霊天皇(第七代) #黒田廬戸宮跡 と #法楽寺。桃太郎のモデルと云われる #吉備津彦彦五十狭芹彦命)は #崇神天皇 の時代、この地からお伴とともに吉備の鬼征伐に向かったと伝えられます

目次

本文

歴史探偵 桃太郎の回

奈良盆地を歩き始めた先日、たまたま録画していた歴史探偵の桃太郎回で、モデルとなった吉備津彦彦五十狭芹彦命、ひこいさせりひこのみこと)の田原本町生誕地伝承が紹介されていたので早速訪問。

歴史探偵 桃太郎回より

第七代考霊天皇 黒田廬戸宮【法楽寺】

(34.56852513659576, 135.7749523640016)/奈良県磯城郡田原本町黒田360/近鉄田原本線黒田駅より徒歩5分。駐車場はありません

近鉄田原本線黒田駅から徒歩5分。

前方後円墳の黒田大塚古墳の西に法楽寺があり、隣接して第七代孝霊天皇*1 黒田廬戸宮跡(くろだいほどのみやあと)

法楽寺

法楽寺 案内

法楽寺縁起、案内板+寺縁起より)当寺は第七代考霊天皇の都。第六代考安天皇崩御の後、考霊天皇はこの地に宮を造り、廬戸(いほど)と名付け、黒田里陵(黒田大塚古墳)を作り、第八代考元天皇が即位した土地。後世の第三十四代推古天皇飛鳥時代聖徳太子が橘寺から法隆寺へ毎日、この黒田を通るたびに、西に紫雲がたなびくのを不思議に思い、当寺を訪ね、社殿に本像三体を奉納した。中尊は考霊天皇、左に考元天皇、右に考安天皇。あわせてこの地に伽藍を建立し、考霊天皇本地仏を虚空蔵と定め、金堂の本尊として安置した。講堂には一刀三体の地蔵尊を刻んだ。慶雲四年(707)に、奈良時代の第四十三代元明天皇より黒田山法性護国王院の号を賜る。弘仁九年(819)には弘法大師が止住し、法楽往生院と名付けた。鎌倉時代に(1207)残らず消失したが、後に再建され室町時代には二十五宇を数えた(板絵図)。松永久秀筒井順慶の合戦(1573)で伽藍が焼失し、六年後に筒井順慶が再建。現在の本堂はさらにその後の再建によるもので、現在は一堂を残すのみである。

桃太郎伝説発祥の地 案内(法楽寺入口)

桃太郎伝説発祥の地案内には、田原本町は川上から男子が流れてきて神様になったという伝説を残し、万葉集では桃の名所として詠われている と紹介されていますね。

歴史探偵では、纏向遺跡(まきむいせき。当地から東南に約8キロ)から出土した大量の桃の種との関係を推理していました。

纏向遺跡から出土した大量の桃の種

法楽寺縁起より。童話の桃太郎さん)記紀によれば、考霊天皇の妃、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと*2)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと*3、次に(彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと。別称:吉備津彦)、他に二人をお産みになった。吉備津彦はその性質勇ましく、情深く、第十代崇神天皇の時に 四道将軍の一人に選ばれ、弟の若日子建命(わかひこたけのみこと、稚武彦命・わかたけひこのみこと)とともに勅命を受けて吉備の鬼征伐に向かう。随伴者に犬養部、猿養部、鳥養部の重臣 があり、岡山の吉備津彦神社の矢置岩はその陣営である

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現在の法楽寺境内と 黒田廬戸宮跡

案内図中、左の孝霊神社(廬戸神社)は、現在、ここから数百メートル南東に遷座しています。

かつての法楽寺境内と黒田廬戸宮(孝霊神社)

法楽寺本堂と本堂内

法楽寺 案内

法楽寺 境内

黒田廬戸宮跡(今は何もない空き地)

黒田廬戸宮跡の北側を走る近鉄田原本線

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*1:第二代綏靖(ようぜい)天皇~第九代開化天皇の八代天皇欠史八代という

*2:別名;倭国香媛(やまとくにかひめ)

*3:宮内庁は最古の前方後円墳箸墓古墳倭迹迹日百襲姫命 の墓に治定