はじめに
旧暦三月酉の日 #諏訪大社上社前宮 #十間廊 に七十五頭の鹿の頭が並べられていた #御頭祭(おんとうさい)。#ミシャグジ神 と人が饗宴する神事。現在は簡略化され斎行。#神長官守矢資料館 で復元展示を見学できます #菅江真澄 #サナギ鈴
目次
本文
謎めいた御頭祭
御頭祭は、古くは旧暦の三月の酉の日に行われ、酉の祭(とりのまつり)とも言われ、諏訪大社上社で最大の神事(13日間)でした
(現在は毎年4月15日、上社本宮の例大祭の後、前宮の十間廊で古式を簡略化して斎行。御頭は剥製を使用)
【天明四年(1784年)1~5月/信濃と越後の探訪日記より現代語要約】
(上社前宮の神の前庭(神原、ごうはら)にある)十間廊(直会殿)に七十五頭の鹿の頭がまな板の上に並べられ、中には神矛でしとめられたという耳裂鹿(みみさけしか)も。
神官二人が動物の肉をはじめ、大きな魚、小さな魚、大きな獣や鳥の類などを数多くの器に盛ったものを供物として運び込み、祭りは始まる。
「大勢の神官がみな敷皮の上に並んで供物を下して食べる」「神官はお互いに銚子でお神酒をついで回る」…
春に目覚めた神様と人(神官)の饗宴、つまり直会(なおらい)ですね。
この後、左右二本の御贄柱(おにえばしら、御杖(おつえ)とも)を藤刀(ふじかたな)でてっぺんを刻み、縄を結い、矢を結んで飾り付け、
また、御神(おこう)という八歳ぐらいの紅の着物を着た子供を縄で縛りつける。
祭は最高潮を迎える。
神の前庭で、諏訪の藩主からの遣いの馬を見物人が追いやり、子供たちが追いかける。
御贄柱を担いだ神官が「御宝だ、御宝だ」と言いながら長い鈴のようなものを五個(サナギ鈴。ただしサナギ鈴は六連)、錦の袋に入れて木の枝にかけ、神の前庭を七回回って姿を消す。
そして先に桑の木の皮で縛られてきた子供たちが解き放たれ、祭りは終わる。
守矢家では、鉄鐸(サナギ鈴)を、鉄鈴、陰陽石とともにミシャグジ神の三つの神器 として扱っており、中でも、四組あったサナギ鈴は、明治六年に三組を上社に移し、一組を守矢家に残したとのこと。
室町時代初期の記録に、御頭祭(酉の祭)の中で、大祝の代理となる神使(おこう)三組が、御杖柱と御宝鈴を持って茅野方面(内県)・上諏訪~湖北(大県)・上伊那(外県)を各巡幸、各地のミシャグジ(樹木・岩石など)の地に人を集めてサナギ鈴を鳴らし、ミシャクジ神を降ろし、土地の豊穣を約束、御礼として農産物の何割かを受け取るという約束のもと行われていた、と残されているそうです。(神長官守矢資料館のしおり)
陰陽石は参照できる資料や展示はありませんが、その名から男石と女石の組み合わせかも知れません。
春に先立つ冬の神事が示唆すること
御頭祭は春を迎える祭りですが、それに先立つ冬の祭りも重要で、そこにミシャグジ神を理解する一端が見えます。
以下、神長官守矢家資料館のしおりの内容の紹介。
諏訪信仰の最も奥に生きづくミシャグチ神は、冬になると前宮につくられた御室(みむろ)と呼ばれる竪穴住居の中に籠(こも)る。同時に 大きな蛇体 も中に入れられ、この竪穴の中で神と人と蛇が一緒になって御頭御占*2(おんとうみうら)、筒粥占(つつがゆうら)といった冬期の重要な神事が行われる。神の冬籠りは春三月になると終わり、ミシャグチ神は竪穴から地上によみがえってくる。そして三月の酉の日、神と人との饗宴(御頭祭)があり、その後、ミシャグチ神は地方巡幸に出発する
最大の疑問。。。大きな蛇体とは何か?私にとってはイキナリで説明がなく現時点で詳細不明です。
注釈(2)に書いていますが、元旦の御頭御占神事に先立ち、上社の御手洗川で冬眠中のカエルを獲り神前に供える蛙狩神事(かわずがりしんじ)が行われます。竪穴にいる蛇神に対するお供え物(神饌)という位置づけでしょうか。
蛙のお供え、春に穴から出てくるという態様から考えて、ミシャグジ神の依り代、あるいは神使・化身としての蛇ということでしょうか。
(ミシャグジ神は山や森の精霊と考えられています(昨日記事)から、蛇が本体ということではないようです)
蛇に関して言えば、蛇や蛙が土器などに頻出する諏訪縄文文化、さらに水の祭祀と龍蛇信仰を内包する出雲弥生文化(タケミナカタ)との関係など、多層的に歴史背景を考える必要がありそうですね。