はじめに
諏訪大社の御祭神 #タケミナカタ は謎の多い神様。タケミカズチに敗れて諏訪に逃げる前はどこにいたのか。#中央構造線 がヒントかも知れません #ヌナカワヒメ #多祁御奈刀弥神社 #イセツヒコ
目次
- 諏訪。中央構造線とフォッサマグナが交わる地球規模で稀有な場所
- 古代人は中央構造線を知っていたのか?
- 謎多きタケミナカタはどこから諏訪にやって来たのか?
- 徳島の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)伝承
- イセツヒコとタケミナカタを同一視する本居宣長の説
- 徳島と伊勢の伝承地を繋ぐ線
本文
先月10月の諏訪訪問直前、予習として書いた記事。
諏訪(湖)は、中央構造線(諏訪では南西-北東方向)とフォッサマグナ(糸魚川-静岡構造線。北西-南東方向)の運動が生み出した地形*1で、
① 中央構造線(赤)はフォッサマグナ(紫)の運動により引き裂かれ、
② その引き裂かれてちぎれた二つの端(を繋ぐよう)に諏訪大社上社と下社が鎮座しています。
古代人は中央構造線を知っていたのか?
さて、諏訪に大社を創建した古代の人たちは、中央構造線を知っていた(認識していた)のでしょうか?
タケミナカタとタケミカズチの力比べを描いた出雲の国譲り神話(古事記)を読む限り、知っていた可能性があります。
(出雲の稲佐の浜でタケミカズチに敗れたタケミナカタは諏訪に逃げ込み、二度と諏訪から出ないことを勝者に誓う。ざっくりあらすじは下の記事)
謎多きタケミナカタはどこから諏訪にやって来たのか?
タケミナカタは出雲神であることは間違いないですが、神話の通りに読めば、出雲からだと最短で日本海側(新潟県糸魚川)を通って諏訪に逃げ込んだというイメージになります。
糸魚川にはタケミナカタはヌナカワヒメ(とオオクニヌシの間)の息子という伝承が残されています。
ヌナカワヒメは、古代の高志国(古志国、こうしのくに、こしのくに)を支配したとされる姫神さま。
ヒスイのシンボルでもあります。
ところがです。
タケミナカタの出自に関しては、別の伝承がいくつか残っているのです。
徳島の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)伝承
ひとつは、四国は阿波の国(徳島)多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)の伝承。
(34.07259184656361, 134.41142024594328)/徳島県名西郡石井町浦庄諏訪213−1/御祭神:建御名方尊、八坂刀美命(注:刀売(とめ)ではなく刀美(とみ))
いわく、多祁御奈刀弥神社は、諏訪大社の元宮という伝承。諏訪という地名もこちらが本家という話。
当社に関して『信濃国諏訪郡南方刀美神牡は宝亀十年(七七九)に阿波国名方郡の諏訪大明神を移遷した』と
古資料(江戸期徳島藩の地誌『阿府志』)にあるそうです。
自分で調べたわけではありませんが、Wikiに紹介されていますので関連部分をコピペしておきます。
Wikiタケミナカタ・コピペ)『伊勢国風土記』や『播磨国風土記』に登場する伊勢津彦(伊勢津比古神)は、神武天皇の東征の際に、天日別命(あめのひわけのみこと。天之御中主神の12世孫。初代伊勢国造)に国土(後の伊勢国)を譲るように迫られ、最終的に国をあとにして信濃国へ行ったといわれている。この伝承は『古事記』におけるタケミナカタの説話と似ているため、伊勢津彦をタケミナカタと同視する、あるいは関連付ける説は南北朝時代から見られる。この説を支持した 本居宣長 は、タケミナカタが出雲から逃亡した際に、信濃国に行く前に最初は伊勢国へ避難したと想定していた(宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、28-37頁)
Wikiイセツヒコ・コピペ)『伊勢国風土記』逸文によれば、伊勢津彦神は大和の神武天皇によって派遣された天日別命に国土を渡すよう要求されたが、長く先住していたことを理由に断っていた。しかし、最終的に天日別命が攻勢の準備を整えると、これを恐れた伊勢津彦神は東方へ避退する旨を天日別命に伝えた。すると天日別命に「伊勢を去ることをどのように証明するのか」と問われたため、伊勢津彦神は「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」ことを誓い、夜の内に東方へと去って行った*2。のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って、伊勢国としたと記述される。なお後世の加筆で、追われた後、別の地の神社で祀られたことや信濃国に鎮座したことが記述される(秋本吉郎「二巻 風土記」『日本古典文学大系』岩波書店、1958年)
徳島と伊勢の伝承地を繋ぐ線
まだ資料リサーチの段階ですが、徳島と伊勢の伝承地を先の中央構造線の図にプロットしてみました(糸魚川伝承もプロット)
中央構造線を通して、いくつかの古代妄想仮説が生まれます。
イセツヒコ=タケミナカタなら、イセツヒコが風のように諏訪に逃げたルート(天竜川の遡上、伊那ルート)までわかりますね。
徳島の諏訪が元社であるならば「スワ」とは中央構造線の峡谷あるいはその周辺地形、あるいは中央構造線そのもの、かも知れません…妄想がばく進中(笑)
このような地理的な繋がりを目の当たりにしますと、私たちのはるかご先祖様は(何らかの理由で*3)明らかに中央構造線を認識していたと言わざるを得ません。