はじめに
以前から #諏訪湖 の湖水面低下が疑問(古大和湖も同じ)。今回の諏訪、特に #諏訪大社 #小袋石 訪問で考えたことを整理。さて古諏訪湖の水位低下は自然災害でしょうか。人為的な働きかけの結果でしょうか
目次
本文
諏訪大社の創建など、年代幅の大きな仮定がありますが、現時点で整理し考えたことを書き出しておきます。
今後、加筆修正もあり得る記事としてお読みいただけたら幸いです。
諏訪湖について
現在の諏訪湖は、諏訪盆地の中に納まっており、衛星写真ではキャッツアイに見えます(白い矢印は諏訪湖の流入路と流出路)
諏訪大社は上社(茅野市)と下社(下諏訪町)で各二宮、計4社の構成です。
中央構造線(南西-北東方向)とフォッサマグナ(北西-南東方向)が交差する大地溝帯が作り出した構造湖*1。
水深が深いイメージがありますが、諏訪湖は浅く、平均水深4.7m(最大水深7.2m)。
国土地理院地図のWEBサービスを使って10メートル単位で標高を色別に表してみました。
諏訪盆地の地表面は平均標高が770m弱。これに対して諏訪湖の湖水面の標高は759m。
盆地の地表面と、湖の湖水面の差が10m未満のところがほとんどのため、全体が青色になっています。
周囲31本の河川から水が流入するのに対して、出水は 釜口水門 ひとつというアンバランスな湖で、
諏訪湖から流れ出した水は 天竜川 になりますが、始めはゆっくり(黄色点線の〇地帯)、そこを超えると下り勾配の多い急流となります。
諏訪地方の縄文遺跡の分布
諏訪地方の縄文遺跡マップ。
諏訪湖の周囲の縄文遺跡は標高870〜880mに集中しており、これらは 古諏訪湖の水辺で営まれていた ことがわかります。
先日紹介した小袋石(1回目記事)周辺の磯並遺跡も、そのような縄文遺跡のひとつです。
【1回目記事】
縄文の水際線近くに鎮座していた小袋石と磯並の御神域
縄文の磯並遺跡は、弥生時代に磐座(いわくら)の小袋石を遥拝する御神域に、さらにその後、磯並社を中心とする古神社に変わっていったようです。
この磯並社について、【2回目記事】では古い記録に、境内に天皇の使いを迎える勅使殿が描かれていたほどの格の高さから、現在の諏訪大社上社本宮の「元宮」であったと推理しました。
【2回目記事】
そこで、①小袋石周辺地(+マーク)、②諏訪大社上社前宮、③諏訪大社上社本宮の位置関係を標高とともに確認してみました。
各創建年代(推定)の古い順に①、②、③の番号をふっています。
この各創建年代(②、③)はザックリした推計です。
③諏訪大社上社本宮の巨木の樹叢は創建時からのものと云われますが、代表的な大欅(おおけやき)が千年ぐらい、それよりも古い樹もあると聞き、当社の創建を平安時代、およそ1200年前と推計しました。
②諏訪大社上社前宮は、本宮よりも以前から祭壇があったと伝えられており、こちらは古墳時代末期ごろのおおよそ1500年前を推計。
ひとつの根拠として、 以前の記事(20190720) で紹介した『科野(しなの)国造家出身の神子(くまこ)、または乙頴(おとえい)という人が用明天皇二年(587年)に諏訪湖の南に社檀を設けて初代大祝(おおほおり)となった』(1956年発見「阿蘇氏略系図(異本阿蘇氏系図)」、1884年発見「神氏系図(大祝家本)」)を参考にしています。ただし阿蘇氏略系図は偽書との説もあります。
私はこの『諏訪湖の南の社壇』というのが、①磯並四社の御神域、あるいは②現在の諏訪大社上社前宮、のいずれかではないかと考えています。
(上社古図には、①と同様、②にも帝屋(勅使殿)が描かれており、時代的に②の方が可能性が高い)
古諏訪湖の湖水面の変化(妄想推理)
これらの情報を頭の中で整理した上で、古諏訪湖の湖水面の変化を描いてみました。
ザックリした年代推計に基づいていますので、今後修正があるかも知れませんが、現時点の推計です。
(①諏訪の縄文時代の終わり、つまり、磐座信仰(小袋石祭祀)の始まった弥生期初期を-2500年と推計)
■ 弥生時代~古墳時代、古諏訪湖の湖水面は約1000年間に80m低下(年平均8センチのペース)
■ 古墳時代終期~平安時代、湖水面は約300年間に20m低下(年平均6.7センチのペース)
■ 平安時代~現在、湖水面は約1200年間に10m低下(年平均0.8センチのペース)
諏訪の縄文晩期〜弥生時代が始まるころの 古諏訪湖は現在よりも110m(=大阪の通天閣の高さ分)も深い湖 でした。
そして弥生〜奈良時代の湖水面の低下ペースは速く見えます。
この時代の低下ペースは、地震等による自然堤防の決壊による水位低下、つまり自然災害がもっともよく考えられますが、
私は両時代が、クニウミ・クニヅクリの時代を含んでいたことと関係があるのではないかと推理しています。
■ 例えば弥生時代。稲作は緩やかな傾斜の水の流れ(標高差)を利用した(唐古・鍵遺跡)
■ 例えば古墳時代。前方後円墳は土地の凹凸を水平に馴らし急増する人口を養うための水田地帯を作る手段(百舌・鳥古市古墳群)
つまりクニウミ・クニヅクリは、土木工事(古語で溝咋、みぞくい)による 人為的な水の流れのコントロール を伴います。
諏訪湖は、自然が創り出したダムのような構造で、出水路がひとつです(釜口水門)。
ゆえに出水路の開削、つまり、流路を広げたり、標高差をつけることで、水の流出をコントロールすることが可能な条件。
ちょうど洗面器いっぱいの水を、洗面器の傾きでチョロチョロ出したり、ドバっと出したりするイメージに近いかも知れません。チョロチョロ出す場合は自然堤(洗面器の縁)を浅く削れば良い話です。
現在の釜口水門から数キロの天竜川の勾配が緩やかであること(最初の色別地図の黄色点線〇一帯)は、そのような人為的なこん跡(古代の土木工事跡)かも知れないと考えています。
諏訪湖では、中世や近世の治水取り組みが確認されていますが、それはそれ以前からの継続であった可能性があります。
治水は千年の計
例えば、大阪南部の水源地であった狭山池(さやまいけ)。飛鳥時代(推古天皇期、聖徳太子が施工監理)から昭和期に至るまで、時代を超えて継続的に治水工事が行なわれていました。
例えば、現在の広大な大阪平野の治水形成の端緒となった茨田堤(まんだのつつみ)や難波の堀江は、古墳時代中期の話。
古代日本のクニウミ・クニヅクリは、現代の私たちが考える以上に壮大で、現代にも影響を及ぼすほどのものであることを考えると、
諏訪湖でも同じような取り組みがあったとしても不思議ではありません。
古人侮るなかれ、です。