はじめに
見学した #井戸尻考古館 の #富士眉月弧(ふじまゆづきこ)の説明。#藤森栄一 氏の土器編年で見えた縄文中期、諏訪と西南関東の繋がり。その契機は五千年前の #新富士噴火 の可能性が高い(新富士噴火で現在の富士山の姿に。古富士より千mも山体を嵩上げした大噴火)
目次
本文
縄文中期・諏訪と西南関東の繋がり
となりのトトロ、サツキとメイ姉妹のお父さんのモデルで、井戸尻遺跡群の調査研究に心血を注いだ 藤森栄一 氏の業績として、
遺跡群から出土した縄文土器の編年(時代区分)を確定し【貉沢むじなざわ-新道あらみち-藤内とうない-井戸尻】、
西南部を中心に関東エリアで出土していた同時代の 勝坂式土器 の編年と対応させたことが挙げられます【勝坂1a-勝坂1b-勝坂2式-勝坂3式】
これにより、諏訪と西南関東の二つの土器文化圏が移動と交流で接続し、四千〜五千年前(縄文中期)の日本列島の人口集中地帯であった様子を「広域に見る」ことができます。
赤い丸の井戸尻はその中心地。
五千年前の新富士噴火
「V字」のくびれ、甲府盆地を中心に東西の月の弧のようなカタチが、接続した人の眉にも見えることから「富士眉月狐」と呼んでいます。
井戸尻考古館の解説は難解で、なかなか頭に入って来ませんが😅、富士山の噴火と絡めたところはナルホド!
井戸尻文化がピークを迎えた縄文中期は、現在の富士山のカタチを形成した 新富士噴火(五千年前)と関係があるはずで、大量の降灰などの火山被害から逃れることが、人の移動の主な契機であったように思います。
一般的に、火山灰の被害は、偏西風によって富士山東側に集中するはずで、降灰地に住んでいた人々は、他の土地(北西の甲府〜諏訪方面、中部高原)に逃げるしかありませんから。
(図は富士山の概要からお借りしました。静岡方面から見た富士山の図)
最近たまたま見たブラタモリ(再放送)で紹介されていた葛飾北斎の富嶽三十六景「信州諏訪湖」
諏訪湖から富士が見えるとは!…知りませんでした。
【参考】井戸尻文化主要遺跡分布図解説(文字起こし)
新道期〜藤内期が各地の人口移動(分散と定住)のピークのようです。
例えば、富士山(や他の火山)から遠い松本盆地南側、伊那谷(天竜川)は、西南関東から逃れてきた人々の新天地となったのかも知れませんね。
以下、参考に文字起こししておきました。
およそ5000~4000年前、中部高地から西南関東に展開していた先住民族の文化は井戸尻文化と呼ばれる。この文化は4300年前頃に大きな変わり目をむかえるが、ここではその時期(曽利Ⅱ期)以降に成立した集落遺跡は扱わない。発掘調査によってある程度以上に内容の知られる主要遺跡をあげた。
1、初期に誕生してその後もずっと継続する母村ともいうべき集落は、諏訪盆地北縁から甲府盆地東縁に至る範囲に集中している。すなわち井戸尻文化を育んだ中心はこの地帯である
2、中心地帯の八ヶ岳西麓~諏訪盆地・八ヶ岳南麓・笛吹川左岸の三つの地域は、いずれも集落総数に占める母村の比率が3割強と高く、新道期から藤内期に集落数がほぼ倍に増えている
3、松本盆地南半部周縁は母村の比率が前3地域の半分ほどであり、新道期から藤内期に集落数が4倍前後に増えている
4、伊那谷でも母村の比率は松本盆地周縁と同程度であり、こちらは藤内期に至ってやはり4倍前後に集落数が増えている
5、西南関東における母村的集落は多摩川筋の関東山地東端部にまとまっており、笛吹川左岸の母村群との関連性が察知される。双方を結ぶのは、笛吹川上流から多摩川上流に至る峠超えの道筋とみられる。
6、多摩川右岸の丘陵地帯では、母村の比率が松本盆地・伊那谷のそれに近く、新道期から藤内期に集落数が3倍あまりに増えている
7、多摩川左岸の武蔵野台地では、新道期から藤内期に集落が急展開する。井戸尻Ⅰ期にも新しい村が営まれる
8、相模川流域では、藤内期に至って一挙に集落が展開する。井戸尻Ⅰ期にも新しい村が営まれる
9、相模原と伊那谷では6割の集落が藤内期に出現し、武蔵野台地で5割、多摩川右岸丘陵でも4割強の集落が藤内期に誕生する。井戸尻文化の頂点にあたる藤内期に、文化圏も飛躍的に拡大している
10、中枢3地域の集落立地が山麓ないし丘陵であり、西南関東でも丘陵地帯における集落展開が安定的であることは、この民族が本来的に平坦地ではなく、中小の河川で区切られて起伏の変化に富んだ尾根筋を好む山地民であったことを示唆している