はじめに
遣隋使 #小野妹子 に #聖徳太子 が託した #隋の煬帝 への親書『#日出る処の天子。書を日没する処の天子に致す。恙なきや』…にじみ出る #飛鳥時代 を迎えた高揚感。神の鳥が次々と羽ばたきました #白鳳 #斑鳩 #白雉 #朱鳥
目次
本文
大阪四天王寺。飛鳥という新時代のシンボル
縄文、弥生、古墳に続く飛鳥時代。
飛鳥(現在は明日香村)に都が置かれた時代に始まり、教科書的には、崇峻天皇(第32代)が蘇我馬子に暗殺され、推古天皇(女帝)が即位した593年からとされていますが*1、
この593年というのは、聖徳太子により 大阪四天王寺が創建された 年でもあります。
つまり 四天王寺は飛鳥という新時代(新国家体制)のシンボルとして創建された ということです。
国内向けと海外向け。シンボルの二つの意味
この時代のシンボルとしては二つの意味があり、
ひとつは国内向け。
和と中庸の精神(八方にひろがる転法輪の思想)による古い時代(古神道)と新しい時代(仏教)の調和と、新しい国家運営のシンボル。
もうひとつは海外向け。
創建当時、四天王寺の五重塔と金堂は、外交の港湾都市・難波津 の水際の丘にそびえ、
西(瀬戸内海)からやってきた外交使節団が、鮮やかな朱色の伽藍を見上げる構図を考えて設計されました(南北軸線の四天王寺伽藍の理由のひとつ)
ちょうど写真中央の位置から真東…門の向こうの伽藍中心に転法輪石が置かれ、さらにその真東、約15キロ先の生駒山に 大羽根を広げた大鳥(中心頭部は天照山)が佇んでいます。
創建当時、高い建物などなく、金堂と五重塔の間に、今にも空に向かって飛び立とうとする大羽根をひろげた大鳥が見えたはず。
さらに春分・秋分の日には、大鳥の頭(天照山)から朝の日がのぼる 日出づる国 のシンボルの完璧な構図。
外交使節団は、この大掛かりな仕掛け 飛鳥 を、本国の皇帝に報告したことでしょう。
日出る処の天子。書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや
聖徳太子が遣隋使・小野妹子に託し、隋の煬帝(ようだい)に届けた親書の有名な一文。
日没する処の天子、そして同等の天子と書かれた煬帝は、これを読み激怒したといいます
(『恙なきや』を『恙虫(つつが虫、ダニ)に噛まれていませんか?』と読んだことによる激怒説もあります)
日出る処の天子(日本)から日没する処の天子(隋の皇帝)へ。
物部氏が支配した長くて古い時代から、新しい国家づくりへの高揚感。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢い、飛鳥の新時代を迎えた高揚感をあらわしているように思います。
飛鳥時代は 白鳳(はくほう)、斑鳩(いかるが)、白雉(はくち)、朱鳥(あけみどり)など、神鳥を表現する言葉が次々と使われた時代でもあります。
飛鳥京の飛鳥
明日香村(飛鳥京)の東の高いところ、多武峰(とうのみね)の気都和既橋(けつわきばし)からの眺め。
(この道を降りてゆくと石舞台古墳)
もうひとつの 飛鳥。
葛城の大鳥(金剛山と葛城山)を見晴るかすこの地には、たびたび都(飛鳥浄御原宮 )にあらわれた朱い鳥が棲んでいたという伝承が残ります(この物語から朱鳥の元号が生まれたといわれます)
「飛ぶ鳥の」は「明日香」に掛かる枕詞だったところから、いつしか「飛鳥」を「あすか」と読むようになったという説がありますが、
飛鳥新時代を迎えた人々の心の昂り、高揚感を理解する上でも、この説は当たっているように思います。