ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【伊雑登美命】志摩半島一帯を拠点とした【トミ】一族のこん跡

はじめに

伝 #伊雑登美命 の小祠。伊雑宮、安楽島(あらしま)の伊射波神社ともに「イザワ」の名の付く社が #志摩国一ノ宮 とされることから、志摩半島一帯に「トミ」が深く根付いていた歴史が窺えます

目次

本文

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伊雑登美命(いざわとみのみこと)を祀る小祠

伝・伊雑登美命の祠(倭姫旧蹟地に隣接)

伊雑登美命が登場するのは、大和から伊勢へ、倭姫(やまとひめ)の「元伊勢の旅」を描いた 倭姫命世記*1

伊雑登美命は、本拠とされる伊射波神社(いさわじんじゃ、鳥羽市安楽島、あらしまちょう)*2では「倭姫が皇大神宮伊勢神宮)の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、この神が出迎えた」と伝える人物あるいは氏族です。

案内板に紹介された古地図

当地(千田の御池)に、聖徳太子が訪れて建立したと伝えられる無量山千田寺の境内に位置します

(記事末、礒部宮元勅賜門の勧進序②を参照)

今はない千田寺の堂宇のひとつであったのかも知れません。

伝・伊雑登美命の祠

この写真には、いろいろと暗示・示唆されていることが多いですね。

伊雑は「伊雑波、伊佐波」イザナミと読むこともできます。

そして伊弉諾(イザナキ)と伊奘冉(イザナミ)の立て札。

覆屋の壁に「伊雑登美命は倭姫命に命ぜられて伊雑宮を造営されたと伝えられます。」

「勝負神」の立て札も気になります。

勝負神とは、おそらく、正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神(まさかつ・あかつ・かちはやひ・あめのおしほみみのおおかみ)のこと。

シャレじゃないですが…マサカッ!同じ解釈をしている人がいるのでしょうか。

実は私は天忍穂耳大神がイザナキではないかと考えていたんです。

今までのところ、そのシッポを探っている段階ですが。

ドキドキしながら覆屋を覗くと、右に小さな祠、左に庚申塔の石碑がありました。

なぜ庚申塔なのかは、よくわかりません。

*****

個人的には、古代の河内や大和北部に勢力を持っていた出雲系「登美、とみ」 に繋がる氏族と推理しています。

垂仁天皇(第11代)は、トミ一族の力を頼りにしていました(倭姫は垂仁天皇の第四皇女)

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伊雑宮、伊射波神社…「いざわ、いさわ」の名がつく神社がともに志摩国一ノ宮であることから、志摩半島一帯は「トミ」が深く根付いた、その一大拠点であったことが窺えます。

持統天皇の勅賜門(不開門)

持統天皇が、当地を訪れて、この地に勅賜門(ちょくしもん)を建てたとも伝えられます。

(記事末、礒部宮元勅賜門の勧進序③を参照)

案内板には、大正期まで、地元では不開門(あかずのもん)とも呼ばれた勅賜門が残っていたことが紹介されていました。

案内板より

現代に至る、伊勢神宮を頂点とする体制が確立されたのは明治期ですが、社殿を含め、国家神道に近い形で整備を始めたのは天武・持統天皇の時代です。

聖徳太子の事蹟や勅賜門が残された伊雑(礒部)の地は、古代において、歴史上の重要地であったことを示唆します。

礒部宮元勅賜門の勧進序(案内文文字起こし)

倭姫旧蹟地の案内文。下段が「礒部宮元勅賜門の勧進序」

①そもそも勅使門のわけを詳しくたずねると、人皇十一代垂仁天皇のみ世に大歳*3の神前へ天のまな鶴が天の稲穂をふくみ来て落としたので、垂仁天皇第四女倭姫命その稲の美しいのをご覧になり千田の御池に種つぎされて、その秋は垂穂(たれほ)・八握穂(やつかほ)にたれて、はなはだ見事であった。それでその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社八百万神たちに神酒を造り、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。それでこの社において五穀成就の祈願としてお神楽を奏することを今に絶やさない事実は神書にある。

②その後代三十二代用明天皇第一皇子 聖徳太子 が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ「わたくしその地を遊覧しよう」と千田の神池にみ幸された。たいへん感嘆され、この地を末の世まで栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名付け、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻をして納められた古い遺跡であることは明らかである。

③また四十一代 持統天皇 このことを聞かせられ、かたじけなくもこの地にみ幸あり、数日みこしを留めさせられ、新たに 勅賜門 を建てられた。そのみ跡を今に現存する。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りして、神池の霊水をいただき、太子のお掛を拝むことが故実となっていた。

それだのに数百年たって勅賜門の堂宇は雨露のため破れ、その跡のみ残り、御影を仮殿に安置して、いにしえを思い、いささか上古の万分の一でも再建しようと思っても自力かなわず。つつしみ思うに右の皇太子は、神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者士農工商いづれか、太子の報恩を知らないでいられようか。あおぎ願わくば右を信ぜられ人々は多少によらずちからを合わせて、この願いを成し遂げれば、二世のことごとく神仏に奇巌いたしませう。志州宮本無量山 文政十八年寅正月 願主千田寺

*1:平安時代末期〜鎌倉時代中期の成立。伊勢神道の経典である「神道五部書」の一書。(以下Wiki)成立に当たっては神宮の古伝承も包摂されたと考えられている

*2:伊雑宮とともに志摩国一ノ宮

*3:佐美長神社、志摩市礒部町。伊雑宮の所管社