ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

全国天王総本社【津島神社】信長公と秀吉公の歴史が刻まれたスサノオの社

愛知県 #津島神社。西(京都)の八坂神社に並ぶ #スサノオ を祀る古社で、西は琵琶湖東岸までをテリトリーとし中部地方を中心に三千社に及ぶ津島社・天王社の総本社

目次

本文

(35.17827370043181, 136.71858806403802)/愛知県津島市神明町1/名鉄津島線尾西線津島駅から徒歩で約15分。専用駐車場あり

津島神社 南鳥居

御祭神:【主神】建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、【相殿】大穴牟遅命(おおなむじのみこと、大国主命

御祭神の建速須佐之男命は、スサノオのこと。

津島神社 御由緒

津島神社は古くは 津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ) と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。大神は国土経営・産業開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起こる災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。社伝によれば当社は欽明天皇元年(西暦540年)のご鎮座弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正歴年中、天王社の号を賜ったと伝えられ、いわゆる諸国の天王社の本社として全国に約3,000社の御分霊社があります。御鎮座以来、歴代の武門貴賊から篤く尊崇されましたが、殊に戦国時代津島の隣り勝幡城出身の 織田氏は、当社を氏神と仰いで 造営その他に協力し、秀吉公を始め豊臣一門は織田氏に続いて社領を寄進し造営を授けるなど尊信し、現在の重要文化財指定の楼門は天正19年(西暦1591年)秀吉公が寄進され、また愛知県文化財指定の南門は慶長3年(西暦1598年)秀吉公の病気平癒を祈願して秀頼公より寄進になったものであります。又現在の御本殿は慶長10年(西暦1605年)清洲城松平忠吉公(家康の四男)の病弱を憂えた妻女政子の方の寄進になった建物で重要文化財に指定されております。天保4年尾張藩徳川義直公は社領として津島向島の地で高1,293石余を寄進し後に将軍家綱公の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。幕府光格天皇以降、朝廷内々のお沙汰を以ってしばしば歴代の主上親王様方のご祈祷を仰付けられ又有栖川宮家のご祈祷所をも仰付けられました。明治6年県社に大正15年国幣小社列せられましたが、終戦後この制度は廃止されました。

津島神社 参拝

津島神社 境内図(東鳥居付近)

津島神社 東鳥居

津島神社 秀吉寄進の楼門から東鳥居

津島神社 拝殿

御神紋は、織田家もならった木瓜紋もっこもん)。

瓜(キュウリ)の断面を描いた木瓜紋もっこもん)は京都・八坂神社(御祭神:素戔嗚尊、すさのおのみこと)も同じ。

信長公は、自ら、激しいけれど、新しい国づくりを目指した、スサノオたらんとしたのかも知れませんね。

津島神社 拝殿から。奥が御本殿

津島神社 御本殿

スサノオは、神仏習合では牛頭天王と同一視されます。

多彩な性格の神様ですが、津島神社では「災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神」としています。

御祭神:建速須佐之男命

天王祭

案内板中(後半)に、秀吉公が京都伏見に桃山城を築いた際、城下に津島神社を移築し、淀川で川祭りを行おうとした話が書かれていますね。

大坂や京都で、神様をあっちこっちに移転させた人ですが、そんなことまで考えていたとは…なんともバチアタリな。

尾張津島天王祭(七月第四土曜)

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