尾張なごやの #津島神社(2回目)。御祭神の建速須佐之男命は、江戸期まで #牛頭天王 と尊称された除厄の神様。明治期にスサノオ神に統一されました。このあたりの経緯について夏に斎行される #天王祭 から考えてみました #京都八坂神社 #祇園祭
目次
本文
疫病を封じる牛頭天王
津島神社の休憩所に「スサノオ神が厄神を退治する図」という絵が掲げられていました。
「元絵は、葛飾北斎86歳の時に、牛島神社(東京都墨田区)に奉納した肉筆絵で、スサノオ神と4人の従者の前に15人の厄神がひざまずき、今後厄病や災いを起こさないことを誓う証文を取っている様を描いたたもの」で、
残念ながら、元絵は戦災で焼けてしまいましたが、「すみだ北斎美術館」に保管されていたモノクロ画像をもとに、津島市在住の吉田氏が、ボールペン画で再現したものだそうです。
江戸時代には牛頭天王が、いかなる神格としてとらえられていたかがわかる貴重な資料ですね。
(明治期に「天王」を名乗るのはケシカラン!ということで、神仏分離の名のもと、全国の天王社の御祭神・牛頭天王はスサノオ神に変更されました)
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庶民の間では、除疫の神格的に、大陸の道教の鍾馗様(しょうきさま、疱瘡除けや学業成就の神)とも、習合し親しまれていたのではないかと思います。
全国で牛頭天王を祀る神社は、京都八坂神社と、この尾張津島神社が有名ですが、おおむね、琵琶湖東岸を境にして西は八坂、東は津島のすみ分けがなされたそうです。
中部地方を中心に全国約三千の津島神社の総本社が尾張津島神社で、
春に伊勢志摩めぐりをしたとき、牛頭天王を祀る集落ごとの各社で 天王祭 が行われていることを知りました。
鳥羽志摩の国・民俗歳時記より『牛頭天王は疫病を封じる力があり、須佐之男命と同一視される。水浴禁忌など 水の神の性格も併せて持つ。釈迦が生まれた祇園精舎の守り神とも言われる。伝承によると、奈良から平安時代にかけて都で疫病が流行したとき、これは怨霊の仕業であるとされ、徐厄の神として牛頭天王の信仰が広まった(中略)志摩は津島神社から勧請したものが多い。天王祭は旧暦6月14日に行われ、村民による演劇や余興も行われて村民の楽しみな行事であった。祇園祭と言われ地芝居も催された。今は7月14日に行う地域が多い。この頃は梅雨の末期、湿気と気温が高く、カビや疫病が流行しやすい時季である』
京都の夏の風物詩、祇園祭との関係が推理されます。7月14日は、ちょうど祇園祭の前祭の宵山(山鉾巡行)の日にあたります。
疫病が流行する夏場には、水から厄神が伝播するという形での防疫概念はあったようで、それが水浴禁忌などの習慣につながっていたようです。
両社に共通する 木瓜紋 を、前回、キュウリの断面と紹介しましたが、現在の岡崎公園あたりで採れるキュウリなどの水気の野菜を通じて(コレラなどの)疫病が流行すると考えられたため、その警鐘として御神紋にされた、という話を京都で聞いたことがあります。