住吉大社の歴代神主であった #津守氏 居館があったところ。今は史跡保存されている住吉行宮跡・正印殿跡(二回目)。域内には小祠がいくつか。そのうち #結の神社 のそばに #陽石(石棒)と #陰石(丸石)。#アラハバキ信仰
目次
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住吉さんの南。古代「住吉の津」の名残り
前回。
住吉大社の歴代神主家・津守(つもり)氏の居館(神主館)に隣接して創建されたのが正印殿で、
江戸期の摂州住吉宮地全図には、現在でも残る大社の南を東から西に流れる疎水(名称不詳)の右側(南)に描かれています。
ちなみにこの水の流れは、すぐ近くの浅澤社(住吉大社境外末社)とともに、かつて(創建の古墳時代前〜中期、西暦300年代)、一帯が摂津(難波津)の海岸線から入り込んだ入り江(住吉の津、墨江)であった名残りです。
上町台地の断崖線…かつての海岸線とはまた違った、海辺のこん跡を、このあたりで見ることができます。
津守氏が勃興した住吉大社の創建時代には、神主は小舟で神殿に行き来していたのかも知れませんね。
津守氏について
神功皇后から「住吉の津を守る」という意味で「津守」の姓を与えられた田裳見宿禰(たもみのすくね、日本書紀)を祖とする一族で、この一帯を支配していた海人の系統であったと考えられます。
一族は、摂津の広い海域を支配し、例えば、遣隋使・遣唐使派遣時の祭祀一切を司り(津守氏の興隆と神主家の誕生)、
中興の祖と云われた第39代・津守国基(つもりくにもと 、1026~1102年)が活躍した平安時代以降、明治期まで朝廷から与えられる官職(職、しき)として、大社の神主家を世襲しました。
古いアラハバキ信仰のこん跡!? 陽石と陰石
津守家は、皇室を別格として、出雲の千家と北島家、紀州の紀家とともに日本三家の一に数えられるほどの名家ですが、
そんな津守氏の居館があった正印殿跡には、現在、南朝の後村上天皇・住吉行宮碑といくつかの小さな祠が残されているだけです。
そして、結の神社と吉拾稲荷神社(読み方がわかりません😅)の間に置かれた陽石(石棒)と陰石(丸石)。
どんな経緯で、このような古いアラハバキ信仰のシンボルのようなものがあるのでしょうか。
どこかの時代に持ち込まれたものなのか、それとも元々ここにあったのか。
何もわかりませんが、ほんとうに驚きました。
津守氏の居館があり、歴代天皇(南朝)が一時的とはいえ御所を置き(行宮)、明治天皇も行幸した、歴史的で、ある意味神聖な場所に、陽石と陰石が置かれている現実。
これを目の当たりにしてから、実はもう数ヶ月間、調べていますが、「ここにそれがある」経緯は未だにわかりません。
ただ、手がかりが全く無いという訳でもありません。
過去に当ブログで紹介していますが、今一度、以前の考察(古代妄想)とあわせて考えてみたいと思います(次回)