最晩年 #近江の昔話 をモチーフに、残し逝く幼い二人の子どもたちのために幾枚かの名作を残した画家 #三橋節子 さん。彼女の行跡を展示する #三橋節子美術館(滋賀県大津市)来年の没後50年を記念したプレ回顧展が始まりました
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(35.0074482, 135.8572347)/滋賀県大津市小関町1−1/京阪電車京津線・上栄町駅から徒歩15分(京都地下鉄東西線・三条駅から浜大津駅行で上栄町駅まで直通)
京都方面から上栄町駅を出て、坂道を上がったところに三橋節子美術館への案内板。
長等(ながら)の丘沿いの一本道道を進むと美術館に着きます。
「ながら」は、水源地(扇状地の要)の古地名であることが多く、古い時代、この丘もそうだったのでしょう。
水の龍神、弁天さんのお社。
画家・三橋節子さん
この日、目指している美術館の名になった三橋節子さん(1939-1975)は、長等の丘の自宅で、ご主人と二人のお子さんと暮らし、三十五才という若さで夭折しました。
画家の命である利き腕の右腕を不治の病の手術で無くし、
それでも残った左腕に筆を持ち替え、残される二人の幼子のために、近江の昔話をモチーフとしていくつかの名画を描き残しました。
ポスターの絵はそのひとつ「花折峠」。
「三井の晩鐘」や「余呉の天女」もよく知られています。
その昔、琵琶湖に住む龍神の娘が人間に化身し、心の優しい若い漁師と結ばれ、子が生まれました。ところがある日、湖へ帰らねばならない日が来て、娘は湖の底へ沈んでしまいます。しかし赤子が乳を求めて泣き止まず、やむなく娘は乳の代わりに自分の目玉を与え、盲目となりました。そこで娘は幼子の無事を確かめるため、目が見えない自分に聞こえるように、毎晩、三井寺の鐘を撞いてほしいと夫に頼みました。それから三井寺では毎晩、鐘を撞くようになりました
朱い着物の娘は三橋節子さん本人、龍の目玉をしゃぶる幼子は、残される二人の子供たちと、されています。
近江八景・三井の晩鐘
#日本三名鐘 のひとつ#三井寺(滋賀県大津市)の鐘#近江八景 #三井の晩鐘
— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2024年6月1日
冥加料を奉納して奥さんが撞きました pic.twitter.com/vj7vSHAT2F
長等(ながら)の菩提樹
回顧展の説明の中で、三橋節子さんは長等(ながら)の丘の野草をよく描き、
その中で、六月には菩提樹の花が咲くと書いてあるのを読み、スタッフの方にお聞きすると、
彼女が描いた菩提樹の株分けが、美術館の前庭にあると教えていただき写真に収めました。
少し早くて、まだつぼみ。
あと一週間ほどで小さな黄色い花を、葉陰で秘かに付けるそうです。