淀川北岸の #三島鴨神社 鳥居そばのパネルに書かれた『ウラの伝承』。その内容は出雲伝承であり、そこから隠された弥生出雲の史実、入れ換えられた御祭神の仮説が浮かび上がります #玉櫛姫 #活玉依姫 #幾島大明神 #事代主神
目次
本文
オモテの由緒よりウラの伝承
前回の続き。
三島鴨神社のオモテの由緒にある「御島(みしま)」は、仁徳天皇の茨田堤(まんだのつつみ)に関連する話ですから、創建は古墳時代中期(西暦400年代半ば以降)になります。
一方で、ウラの伝承にある「三島(ミシマ)」は、現在の淀川北岸の高槻市〜茨木市一帯に存在した弥生出雲のクニに関連する話で、つまり、創建は早ければ紀元前200年頃の弥生時代 ということになります。
後者の創建時期を補強する「ミシマのクニ」のこん跡が東奈良遺跡で、先日紹介した通り、遅くとも紀元前200年には繁栄していた弥生集落跡です。
東奈良と三島鴨は『ミシマのクニ』のミヤコと祭祀場?
東奈良遺跡(茨木市)と三島鴨神社(高槻市)は直線距離で約5キロの至近で、かつ、三島鴨は東奈良のちょうど東に鎮座しています。
東奈良から見て真東の三島鴨は、春分・秋分の朝の太陽が昇る方向にある古大阪湾の水辺・古淀川の河口の祭祀場であったと推定されます。
出雲伝承は、ミシマは出雲の主要な都市国家のひとつと伝えますから『鴨』の名の 太陽の祭祀場 があってもおかしくありません。
父娘神(御祭神)の入れ換え
関連して、古墳時代の創建であるなら、御祭神は三島信仰の大山祇(オオヤマツミ)と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の父娘神の伊予三島からの勘請は理解できます。伊予三島の大山祇神社の創建は飛鳥時代(推古天皇期)だからです。
しかし弥生時代の創建であるなら、三島鴨神社には、神社名にも残る出雲・鴨のこん跡があるはずです。
私は、父娘神の入れ換え があったと推理しています。
というのは、ミシマのクニが推定されるエリアには、古くから父娘神が伝えられているからです。
茨木市立文化財資料館(東奈良遺跡)のパンフレットに父神・娘神・孫娘神のキャラがいます😀
弥生ミシマのクニ(東奈良遺跡)は、三島溝杭耳命(ミゾクイミミ)を祖とし、娘の玉櫛姫(タマクシヒメ)が姫巫女とされています(日本書紀、先代旧事本紀)
ミゾクイミミとタマクシヒメは父娘神で、この二柱が三島鴨神社の本来の御祭神だったと考えてもおかしくないのではないでしょうか。
玉櫛姫(タマクシヒメ)は 活玉依姫(イクタマヨリヒメ) とも云われ、
日本書紀では事代主神(コトシロヌシ、恵比寿さん、あるいは少彦名神)の妃とされます。
従って三島鴨神社の御祭神は、事代主神・玉櫛姫命(活玉依姫)・溝杭耳命である方が、家族神の三柱としてシックリ来るのです。
中世以前は、三島鴨神社は 幾島大明神(いくしまだいみょうじん)と尊称されており(wiki)、「いくしま」の「イク」は活玉依姫(玉櫛姫)の「活、イク」に通じます。
弥生出雲の歴史が隠された理由
弥生出雲の歴史は、日本の正史(日本書紀・古事記)においては神代の神話として、史実がボカされ隠されています。
おそらく、出雲族の起源がインドからの渡来であるということと関係がありそうです。
ただ出雲伝承が伝える通り、日本に渡来したのはせいぜい一千人前後で、彼らだけで出雲文化を広げることは不可能でした。
つまり、先住の縄文の人々とウィンウィンで協力し合わなければ、列島各地に弥生文化を及ぼすほどには発展しなかったでしょう。
縄文から弥生時代への移行期に、稲作水田のこん跡が見つかりこそすれ、戦乱のこん跡が見つかっていないのがその根拠です。
ただ、出雲の隠された歴史は今も続いており、三島鴨神社のケースはその一例と言えるかと思います。