古代 #ミシマのクニ の 神奈備として崇められた #阿武山(あぶやま)。山中に飛鳥時代の #阿武山古墳。戦前、京大地震観測所建設時に発見されました。漆塗りの棺の60歳前後の貴人は金糸の冠(#大織冠?)を被り美しい#玉枕 に眠っていました #藤原鎌足
目次
本文
阿武山
山稜の東西で、大阪府の高槻市と茨木市を分ける阿武山(あぶやま)
スガタカタチのよい三笠型で、西側を安威川(あいがわ、茨木市)が流れ下ってきます。
弥生時代の「ミシマのクニ」の神奈備山で、古い信仰の対象になっていたと伝えられます。
阿武山の中腹に塔のような建物が見えるのは京都大学の地震観測所。
【前回/東奈良遺跡と三島鴨神社はミシマのクニのミヤコと太陽の祭祀場】
34.8631626, 135.5696164/大阪府高槻市奈佐原/①JR摂津富田駅。高槻市営バス<公団阿武山・日赤病院><大阪医科薬科大学>行きで「消防署前」下車。徒歩約30分(約2キロ、坂道)。②JR茨木駅または阪急茨木市駅。阪急バス<茨木サニータウン>行きで「安威」下車。徒歩約30分(約2キロ、山道)
昭和9年(1934)に地震観測所を建設する際に見つかったのが 阿武山古墳 です。
今もお参りする人がおられるようですね。
阿武山古墳の墓域そばの国史跡の案内板は汚れて読みにくいので、文字起こししておきました。
文字起こしに合わせて写真を並べています。
阿武山古墳は平野を見下ろす標高210М余りの山頂にあり、遠く笠置から生駒、六甲の山々をのぞむことができる。この古墳は盛り土を持たず、尾根の先端部に溝を巡らせ、径82㎡の範囲を墓域として区切っている。
案内板には山頂とありますが、阿武山山頂は、ここから五百メートルぐらい北になります。
墓室は花崗岩の切石と㙛(せん、レンガ)でつくられており、墓域の中央、地下約3m下にある。床の中央には棺台がしつらえられ、墓室の内側は漆喰が厚く塗られていた。棺には布を何枚も漆で貼り合わせた夾紵棺(きょうちょかん)がもちいられ、中に60歳前後の男性人骨がほぼ完全に残っていた。
棺は内側が赤、外側が黒の漆で仕上げられています。
錦の衣服をまとい、ガラス玉製の枕をして、胸から頭にかけ金糸が散らばっていたことが知られている。 墓室は昭和9年に発見され、「貴人の墓」として反響を呼んだが、出土品は調査後、まもなく埋め戻された。被葬者については、発見直後から飛鳥時代の大豪族である藤原鎌足をあてる説がある。おもに 鎌足と三島の伝承 にもとづくものであった。
昭和62年には人骨のX線写真(昭和9年の発見時に撮られていたものが京大で見つかった)の検討から生前の体格や死亡時の状況が明らかになった。
鎌足公は亡くなる5ヶ月前に、天智天皇らと山科野で狩りをしている時、落馬して重症を負ったという伝承があります。
また絹製の冠や玉枕も復元され、それが七世紀後半の最高位者に贈られた冠にあたるとして、669年に没した大織冠藤原鎌足の墓とする説が脚光を浴びている。しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は七世紀前半と考えられることなど、被葬者の特定は今後の研究に委ねられている。
阿武山古墳は数少ない飛鳥時代の墓制を示す貴重な古墳として国の史跡指定を受け、永久保存がはかられている。
続きます。