推古天皇が創建した #卒川神社(いさがわじんじゃ)は #欠史八代 のひとり 第9代 #開化天皇 の #春日率川宮(日本書記)の最有力候補地。現在の奈良市北部、春日野一帯はふるくは#和珥(わに、和邇)と呼ばれ、宮では #三輪山祭祀 に代わる #御蓋山祭祀 が行われていたようです #ヒメヒコ
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第9代開化天皇の宮跡
記紀で系譜はあるものの、詳しい事績が書かれていない第2代綏靖天皇(すいぜい)から第9代開化天皇(かいか)までを 欠史八代 といいます(wiki)
第9代開化天皇(稚日本根子彥大日々天皇、オオヒビ)は春日率川宮(日本書紀、かすがのいざかわのみや、古事記では春日之伊邪河宮)で治世したことが書かれており、その宮跡が率川神社であると考えられます。
率川神社から北東に歩いて10分ぐらいのところに開化天皇陵として宮内庁が治定する、墳丘長100メートルの前方後円墳、念仏寺山古墳があります。
築造時期が5世紀後半(西暦400年代後半、古墳時代中期)と推定されており、
開化天皇の時期(西暦200年前後)と大きくズレていますが、宮内庁管理で考古学的調査ができないため、精確なところはよくわかりません。
春日本宮との東西ラインはヒメヒコのマツリゴトのこん跡
古墳の真偽はともかく、個人的に率川神社が開化天皇の宮跡と考えるのは、当社が春日本宮と寸分の狂いもなく東西ラインで並んでいることが根拠です(緯度34度40分53秒)
この位置関係は、率川宮(率川神社)から見て、春分と秋分の日に、御蓋山(みかさやま)山頂(春日本宮神社、浮雲宮)の背後から太陽が昇ることを意味し、
これは、三輪山祭祀 を始めた媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ、神武天皇皇后)が住まいした 出雲屋敷*1からほぼ真東に三輪山山頂(奥津磐座)が位置する関係と同じ。
弥生文化の大王(ヒコ、日子)には、太陽の姫巫女(ヒメ、日女)を通して、古代の稲作カレンダーを支配し、託宣する権威が求められました。
和珥(わに、和邇)と呼ばれた春日の地
古い時代、和珥(わに、和邇)と呼ばれた春日の地に宮殿を置くには、これ以上の場所はありません。
和珥氏は、第5代孝昭天皇に端を発した皇族で、
第6代孝安天皇、第9代開化天皇の后妃(姫巫女)の血脈で、葛城氏(賀茂氏)がヤマトでの勢力を失った後の天皇に11人の后妃を出した氏族*2
後(6世紀頃)に春日氏を名乗り、御蓋山を遥拝する現在の奈良公園・春日大社一帯を拠点とします。
春日氏は中臣の中心、つまり鎌足公以降に藤原氏となって平安時代の歴代天皇に后妃を送り出し、摂関家として実質的に朝廷を支配しますが、
その権力支配の手法については、その先駆けをこの欠史八代の時代にすでに見ることができます。