ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

東西に並ぶ「ひめさま=下照姫」のお社(Ⅰ)【比賣許曽神社/比売古曽神社】

大阪市内 #上町台地 周辺に「ひめこそ」の名の神社史跡が三か所。「こそ(許曽、古曽)」は尊称で、今風に言うと「ひめさま」になるでしょうか。いずれも出雲の #下照姫 を祀る社ということになります

目次

本文

大阪市内「ひめこそ」の神社・史跡

大阪市内の上町周辺には「ひめこそ」の名の神社史跡が三か所あります。

大阪市内の「ひめこそ」(比賣許曽・比売古曽)史跡・神社

・高津宮(こうづのみや)境内の比売古曽神社(中央区高津、こうづ)

産湯稲荷神社の比賣許曽神社跡碑(天王寺区小橋町、おばせちょう)

・比賣許曽神社(東成区東小橋、ひがしおばせ)

大阪市内の千日前通(せんにちまえどおり)に沿ってほぼ東西に並んでいます。

高津宮境内の比売古曽神社(中央区高津)

近くの生國魂神社(いくたま)と同じく、高津宮は大阪城公園あたり(仁徳天皇の高津宮跡か?)にあったのを秀吉さんの築城に伴って現在地に移転してきた時に、

当地にもともと鎮座していたのが比売古曽神社と云われています。

高津宮 北の石段

御祭神は 下照姫(したてるひめ)

高津宮境内 比売古曽神社

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産湯稲荷神社の比賣許曽神社跡(天王寺区小橋町)

お狸さまのいる産湯稲荷神社は、大阪市内有数の不思議スポット(開物評😀)。

境内に比賣許曽神社跡碑。

産湯稲荷神社 境内の比賣許曽神社跡碑

産湯稲荷神社の御祭神の一柱に 下照姫

藤原氏の源流、大中臣氏十二代目・大小橋命(おおおばせのみこと)の名も御祭神に見えます。

現在地の小橋町の由来になった人物です。

当社由緒には、神代の昔、大国主命オオクニヌシ)の御子・アジスキタカヒコネノミコト(味耜高彦根命、阿遅鉏高日子根神)が、味耜山あじすきやま(小橋山おばせやま、愛具目山あぐめやま)にやって来て、掘って湧いた泉を『日高の清水』『日高眞名井(まない)の清水』と呼んだのが始まり、と書かれています。

アジスキタカヒコネの時代は、記紀の神代(かみよ)…弥生時代・紀元前200年前後でしょうか*1

そして、後の古墳時代(西暦400年前後)、大小橋命(藤原、卜部、伊藤、熊野別当九鬼氏らの祖)が誕生した際、この清水で産湯をつかったことから、『産湯の清水』『産湯の玉之井』と呼ばれるようになったそうです。

産湯稲荷神社

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比賣許曽神社(東成区東小橋)

御祭神は 下照姫

当社が相殿で祀る御祭神の中に、味鉏高彦命(あじすきたかひこのみこと、アヂスキタカヒコネ)、大小橋命(おおをばせのみこと)の名も見えます。

当社の由緒∶当神社はその創建極めて古く人皇第11代垂仁天皇の御代 愛来目山(あくめやま)(大阪市天王寺区小橋町一帯の丘陵地)に下照比売命を祀り、以て源を為すと伝ふ。その後、第23代顕宗天皇の御宇、社殿の御造営あり、また、第33代推古天皇十五年春正月十二日正遷宮の際、天皇行幸あらせ給ふ。第56代清和天皇貞観元年に神階従四位上に進め給ひき。すなわち延喜式名神大社にして実に荘厳なる社殿なりしも数度の兵乱により改築毎に小社となり、遂に、天正年間、織田氏石山本願寺攻めの兵火に遭い、難を避けて摂社なる牛頭天王社に移りぬ。

垂仁天皇古墳時代の創建地は愛来目山(愛具目山)があった産湯稲荷神社の地で、戦国時代に当地に遷座したことが書かれていますね。

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Ⅱに続きます。

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*1:出雲口伝では、西王家筋(葛城の高鴨神社の御祭神)のアジスキタカヒコネは、東王家筋の事代主(八重波津身)と「いとこ」関係になります