新年あけましておめでとうございますm( )m本年もよろしくお願いいたします。2025年の冒頭は前回の続き、これまでも当ブログで紹介した #住吉大社と #仁徳天皇陵 を結ぶラインについてあらためて。#サイノカミ信仰
目次
本文
第一本宮で直角に交わる差東西と南北のライン
前編は、住吉大社の東西の祭祀ラインから、海神(海童、わだつみ)三神が第14代仲哀天皇(表筒男命、第三本宮)、第15代応神天皇(中筒男命、第二本宮)、第16代仁徳天皇(底筒男命、第一本宮)という古墳中期の天皇三代説を紹介しました。
今回は南北ライン。
東西と同じく5度傾いているので2つのラインは第一本宮(仁徳天皇、底筒男命)で直角に交わります。
5度傾く理由は、引き続き調べ中です。
南北ラインについては、以前に何度か紹介しましたが、あらためてどこを通っているのかを、現地で具体的に確認しつつ紹介します。
基準点となる石舞台
南北ラインで現地で唯一確認できるのが石舞台です。
写真の南門〜石舞台、南中門の中心を通る南北ラインは、朱色の板垣の向こうに見える第一本宮を通過します。
このラインは、南と北からの 神気 を第一本宮に注ぐ意味があることが推定されます。
北の「種貸」サイノカミ信仰のこん跡
南北ラインは、北の生根神社(いね)境内の種貸神社(たねかし)を指します。
現在の住吉大社境内の種貸社の元宮です。
種貸社の子孫繁栄と子宝に対する、ある意味、赤裸々な祈りは、男女一対の古いサイノカミ信仰であります。
男女一対の信仰は、明治期〜戦前・戦中、倫理的に低俗であるとして徹底的に排除された歴史があります。
小さな境内社ですが、種貸つまり子授けの信仰が 一寸法師 のおとぎ話を生みました。
老夫婦が住吉の神様に祈り授かったのが一寸法師。
打ち出の小槌を「一振り」すれば 一粒万倍、富も立身出世も、子宝もすべて叶います。
南の「陰陽石」サイノカミ信仰のこん跡
南北ラインの南には、現在、住吉行宮(あんぐう)跡の史跡が残されています。
南北朝時代、南朝の宮仮が置かれた所で、今は住宅地の一角になっていますが、往時は、住吉神官家・津守氏の大きな居館でありました。
行宮跡の一角に、結びの社と吉拾稲荷の祠が並んでいる間に、男石(陽石)と女石(陰石)が並んでいます。
これも男女一対の古いサイノカミ信仰のこん跡です。
こういうあり様を見ると、サイノカミ信仰の源流は縄文時代(石棒と丸石)に遡ることができると考えていまいます。
前方後円墳はサイノカミ墳墓(出雲口伝)
南北ラインを、さらに南に、大和川を越えて堺市の方に伸ばしてゆくと、
その先に日本(世界)最大の前方後円墳・仁徳天皇陵。
ラインは、その後円部中心の天皇が眠る石室を精確に指しています。
本ブログでよく参照する出雲口伝では、前方後円墳は「サイノカミ(幸ノ神)墳墓」であるとしています。
口伝では「壺」と表現していますが、個人的には、男女一対を基本としたサイノカミ信仰にまつわるものとして呼称されているのであらば、
前方部は男性(陽物)、後円部は女性(子宮)を表象するものと考えています。
南北ラインは徹底してふるいサイノカミ信仰をベースとしており、
大王家の子孫繁栄はもちろんですが、母なる大子宮に眠る大王の復活(転生)を祈るラインであったのかも知れませんね。
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今回も前回に続き後編として動画にしました。よかったらご覧ください。