前回の続き。大阪市街の地下に眠る縄文時代 #森ノ宮遺跡(#森ノ宮貝塚)。人骨の栄養状態はよく食生活が豊かであったことがうかがえます。#亀ヶ岡式土器 #糸魚川ヒスイ勾玉 なども出土。広大な交易圏とともに栄えた所と推定されています
目次
本文
森ノ宮に人が住み始めた縄文中期
森ノ宮遺跡(森ノ宮貝塚)に人が住み始めたのは約5000年前の縄文中期。
現在の大阪平野のほとんどは海の底。
半島状で海に浮かぶのが、現在の大阪市内中心部(大阪城〜住吉大社)を貫く上町台地。
縄文中期(4500~5500年前)というのは、海抜が今よりも5メートル高く海が深かった「縄文海進」の頃で、丸木舟の日本海ネットワークが張り巡らされ三内丸山(青森)などの海辺の大集落が交易で栄えたほか、内陸部では中部高地(八ヶ岳山麓~諏訪〜信州)を中心に土器文化が華開いた時代です。
個人的に、男は狩猟・漁労そして移動(交易)、女は定住と採集という二層文化が進んだダイナミックな時代とイメージしています。
そんな時代の森ノ宮は、当時の文化の中心(東〜北日本)から離れた所でしたが、
瀬戸内海と、日本海に向かう琵琶湖〜淀川ラインを繋ぎ、また、二上山〜奈良〜吉野〜伊勢への陸路も交わるという、海・水・陸路の中継ハブ的な位置にあったことでしょう。(大和二上山はサヌカイトの産出地。石器は渥美半島の貝塚でも発見されています)
立派な歯並びからわかること。海の幸・山の幸
森ノ宮貝塚の墓域からは十八体分の人骨が見つかっていますが、そのうちのひとつ。
最初に発見され、映えある大阪市民第一号として認定された😀十代半ばの青年の頭骨。
若者とはいえ、この立派な歯並びを見てください。
良質なタンパク質を含む栄養を十分に摂っていた証とされています。
森ノ宮遺跡の人たちは、前回紹介したカキ・シジミはもちろん、海や山で採れるものを豊富に食していました。
ちなみにシカを食していたということはドングリなども食べていた間接的な証拠になります。当時の古河内海(湖)の南沿岸は広大な森でした。
全国に広がる交易の証
森ノ宮遺跡からは、津軽の亀ヶ岡(縄文後期)や千葉の堀之内(縄文中期)を含む様式の土器が見つかっています。
糸魚川産のヒスイの勾玉(縄文時代)も!
学芸員さん(大阪市教育委員会)によると、いずれも直接的な交易ではなく、間接的に巡り巡ってやってきたのではないか、とのこと。
では森ノ宮から何を輸出していたのかというと、学芸員さんによると、大規模な貝塚が証明するように、豊富なカキを干したものだったのではないかというお話でした。
なるほど!!ですよね。
森ノ宮の美味しい干しカキのお客様なら淀川〜琵琶湖水路周辺、奈良〜吉野方面の陸路周辺にいたと考えられます。
持ち運びしやすいですし、栄養豊富な干しガキなら食糧として、たくさんの需要があったかも知れません。
森ノ宮遺跡・ユーチューブ動画
地元の私でも情報が少ない森ノ宮遺跡の貴重な一般公開。
せっかくですから、当ブログの前回分と今回分を含めてユーチューブ動画にまとめました。
よかったら合わせてご覧ください。(`・ω・´)ゞ