大阪市内 #上町台地 の崖上、ひっそりとたたずむ #磐舟山の碑 に触発されて #古事記神話 #葦原中國 神話の考察・3回目。作者 #太安万侶 が神話に例えた史実はどのようなものだったのでしょうか? #古代河内湖 #味原
兄・アジスキタカヒコネの一族
北の淀川、南の大和川からの活発な土砂堆積が現在の大阪(河内)平野を造りました。
縄文時代の河内海は湾になり、弥生時代には開かれた汽水の湖から、閉じられた淡水の湖(後の草香江)に変化しました。
おそらくそのころ、今から二千二百年前(紀元前200年、弥生時代中〜後期)に、オオクニヌシの息子・アジスキタカヒコネが葛城に移住した後、彼かその二代目(塩治彦または多岐津彦、出雲伝承系図より)が古代河内湖の北岸、
今の阿遅速雄神社(あじはやお、御祭神はアジスキタカヒコネ)が鎮座する
森小路(もりしょうじ、旭区)〜放出(はなてん、鶴見区)一帯に新しい国づくりの地を求めて移住したものと推理されます。
一帯は淀川からの土砂が堆積した古代河内湖畔の葦原の湿地帯で、
そこに鋤鍬(すきくわ)を入れて水田開拓し、稲作が盛んに行われるようになりました(森小路遺跡)
「(河内の)葦(アシ)原に鋤(スキ)を入れて国造りする」アジスキタカヒコネまたはその子供たちの一族がいたことは間違いないでしょう。
妹・下照姫の一族。夫はアメノワカヒコ
一方、妹の下照姫(アメノサグメ、古事記)は、夫・アメノワカヒコとともに、古代河内湖の西畔、現在の産湯稲荷神社一帯(味原、あじはら)に住まいしたと推理。
現在も残る「味原」は「葦原」に由来すると考えること。
また、味原の地は、古代河内湖を東に見晴るかす湖畔の高台にあったことがそのように考える理由です(下照姫を祀る「ヒメコソ神社」(候補地)は大阪市内上町台地の東西に並ぶ)
古事記神話・葦原中國の解釈
舞台背景の考察は整いました。
古事記神話の作者・太安万侶の「例え話は解釈が重要」という言葉に従い、
古代河内湖を「葦原中國」と考えた場合の私なりの解釈です。
恐らく領土争いでアメノワカヒコが亡くなった(暗殺または処刑)後、
下照姫一族は「対岸の」兄・アジスキタカヒコネ一族と協力して
いわば 第二の出雲王国 を河内湖沿岸(葦原)に造ろうとした
というのがもっともあり得ると考えます。
- 古事記神話の『(アメノワカヒコの葬儀に)下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコによく似ていたため、父神と下照姫が「夫(息子)は生きていた」と抱きついたが、アジスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り神剣を抜いて喪屋を切り倒し蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。』というくだりは、
河内湖一帯の支配権を巡る氏族どうしの争いの結果、アメノワカヒコ一族は美濃に逃れたことを示しているとも考えます。
また、オオクニヌシの子供として義兄妹の関係のアジスキタカヒコネと下照姫が似ている可能性なら十分にありますが、神話では
・アジスキタカヒコネと血の繋がっていない義理の弟であるアメノワカヒコが「ソックリ」であり、
・見間違えた妻の下照姫と父親のオオクニヌシに対してアジスキタカヒコネが怒って
・喪屋(葬儀場)を美濃にまで蹴っ飛ばした
というストーリーは「まったくあり得ない」例え話で、つまり「もっともあり得る」上記の解釈が、作者(作家)太安万侶が伝えたかったことではないかと考える次第です。
「葦原中國」については、古大和湖のヤマト地方(国中、くんなか)も考えられますが、
古事記神話の舞台は、現存する神社や史跡・地名・地勢そして伝承(摂津国風土記、出雲伝承)を繋げてゆくと、古代河内湖であった可能性が極めて高いのです。
このシリーズ、もう少し続きます。