奥さんの歴史探訪(グルメ付き)のお供で #橿原市今井町。歴史的な美しい街並みを堪能し #今西家住宅 へ。第八十八代当主の奥さまがガイド。ひょんなことから #三輪山 のお話になり…いつの間にやらお供の私が古代妄想で大コーフン😀 #出雲屋敷 #十市縣主
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退院後にリハビリを兼ねてウォーキングしているうちに、奥さんがなぜか歴史に興味を持ち始め、もちろん美味しいもの付きなんですが😀、ご指定の史跡巡りに付き合うようになっております(`・ω・´)ゞ。
今井町(奈良県橿原市)のかんたん歴史
奈良県橿原市、橿原神宮(畝傍山)からもほど近い今井町を訪問。
信長公、秀吉公と親交が深かった大坂堺の商人・茶人の 今井宗久(いまいそうきゅう) の出身地として知られています。
1650年代以降の江戸期の町並みが保存されている【重要伝統的建造物保存地区】。

現在の大阪城本丸近く(石山)に本拠を構えた一向宗(浄土真宗、蓮如上人、本願寺)勢力は、畿内を中心に各地に自治権と武力を兼ね備えた寺内町(じないまち)を展開。
今井も有力な寺内町のひとつでした。
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町は東西600メートル、南北310メートルの大きさで、その周囲には環濠が巡らされていました。現在も大半の町家が江戸時代の姿を残しています。

織田信長公と石山本願寺の講和後、今井町も降伏しますが、織田軍と首尾よく戦った功績が信長公に認められ、自治権をそのままに赦免されました。
後に「大和の金は今井に七分」と云われるほどに繁栄します。
(後に大坂夏の陣で焼き討ちされましたが江戸期に再興。現在保存されている街並みは江戸期のものです。)

今井町の街並み




今西家住宅
今井の街の西端。環濠そばの屋根の高い建物が今西家住宅。

神代に発する十市縣主(とおちのあがたぬし)を祖とする今西家は、現当主で第八十八代目とのこと。(出雲大社の社家(出雲国造)千家氏は現当主で第八十数代とされますからそれと同じか古い!)
事前予約制ですが、現当主の奥さまが一般公開で案内してくださいます。
以下、今西家サイトより)16世紀の永禄年間、今西家先祖の十市遠勝ら一族が今井郷へやってきて、周囲に堀を造り、西側に櫓を築き、天正三年(1575)本願寺と結んで織田信長公と戦った。しかし、石山本願寺の顕如(けんにょ)が和睦を結んだため戦いの大義をなくし、堺の茶人・津田宗及の仲裁で、武装放棄を条件に赦免状(天下布武朱印状)が与えられた。(中略)大坂夏の陣では豊臣方と闘い、戦後、徳川家康公のすすめもあり、今井の西口を守った功績により「今西」姓を名乗る



武装解除後、江戸期を通じて街のお白洲(裁判所)の場として利用されたそうです。




十市縣主を祖とする今西家。出雲屋敷のお話。
展示品の中に、皇太子時代の令和天皇、高松宮様、三笠宮様がご見学された写真が展示されており、しばし見入っていますと、
奥さまがふと「江戸期の話は今西家にしたらつい最近の話なんですよ」とつぶやかれ…
そこから神代の話となり…😀
神代とは、当ブログで「ヤマト創世記」とする出雲弥生時代、二千年前の話です。
案内が脱線するのを申し訳なく思いつつ、ついつい三輪山や媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)のお話に。
ここは神武天皇の宮があったとされる橿原神宮の近く。
媛蹈鞴五十鈴媛命(イスケヨリヒメとも、ヤマユリがシンボル)は初代神武天皇の皇后で皇族のご先祖さまにあたります。
今西家では今でも定期的に三輪山にお参りしておられるとのこと。
「それはどこですか?」と目をランラン(いやギラギラ)と質問したのがいけなかったのか😅、
はっきりとは教えてくれませんでしたが「ホームページをご覧ください」とのヒントをいただき、帰ってから早速拝見。
ほぉ〜!出雲屋敷 のことが少しだけ紹介されていますね。(上の今西家のリンク先ページ内)
出雲屋敷とは姫巫女(ヒメミコ)の媛蹈鞴五十鈴媛命が住まいし、三輪山の太陽と水の祭祀を執り行った所です。
!!!…文中に見たことがあるイワクラのお写真。
奥さまがあまり話したがらなかったので、私もここまでにしますが、
ご覧の皆様でもしご興味ある方がいらしたら、当ブログの出雲屋敷の過去記事・カテゴリーページの中から、写真のイワクラを探してみてください👍

