南北朝時代に書かれた #諏訪大明神画詞 は北海道の #アイヌ文化期 という歴史区分に影響を与えた史料。これに書かれた #渡党 #日ノ本 #唐子 の蝦夷(えぞ)三族について、自分なりのフィールドワークを通じて考察してみました
目次
本文
諏訪大明神画詞に書かれた蝦夷(えぞ)の三族

南北朝時代、室町幕府の役人だった諏訪円忠(すわえんちゅう)は、諏訪大社上社・大祝(おおほおり、神職)諏訪氏の家系で、
円忠が書いた諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば*1)には、中世・南北朝(室町)時代の北海道の情勢が記述されています(縁起−下巻、奥州争乱の段)
内容は次の通り。(写本により表記揺れがあり、ここでは函館市アーカイブのものをコピペ記載、カッコ内はアーカイブも参考に開物追記)
蝦夷が千島(えぞがちしま)というのは、わが国の東北に当る大海の中央にあって、そこには日の本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の三種の住民がおり、■その中の一島には三類が雑居している。そのうちには宇曽利鶴子州(うそりけし、函館)と万堂宇満伊犬(まとうまいぬ、松前)という小島もあり、渡党は多く奥州(青森)津軽の外ヶ浜(そとがはま)に往来して交易している。三種の蝦夷のうち、日の本、唐子の二類は、その地外国につらなり、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽(きん)獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭(ひげ)が濃く多毛である。言語は俚野(りや、方言が強い)だが大半は通ずる。
蝦夷(えみし)として、三種の民族像が書かれていますね。
①渡党は和人に似ていて、髭が濃く多毛で、言葉は通じる。
②日ノ本・唐子が住まう地は外国に通じ、見た目は怖ろしく行動は予測しがたく、言葉は通じず、獣や魚の肉を常食としている。
③(交易のため)津軽・外ヶ浜にやってくるのは言葉が通じる渡党だけ。
■「これらの三族が雑居している一島」とは、函館や松前があり、津軽・外ヶ浜との往来(交易)がしやすい 渡島半島 と考えるのが定説です。
諏訪大明神画詞の記述を裏付けるように、旧石器〜縄文〜続縄文〜擦文時代を通じて、道南と津軽の交易拠点であったと考えられる遺跡が外ヶ浜には多数存在します。


渡党・唐子・日ノ本。三族・考
まず現時点での考察(古代妄想)をマップに重ね合わせてみました。

外ヶ浜では、津軽と道南が(ほぼ)陸続きだったと考えられる25,000年前の旧石器時代の遺跡も複数(大平山元遺跡など)見つかっている点に注目です。
現在よりも海が100メートル以上低かった旧石器時代に、道南と津軽を陸路で往来していた民族がいたとすると、
縄文の人々は、海進により津軽海峡が形成された後、海路で津軽から道南に渡ったと推理されます。
つまり、
・北海道に先住した旧石器人が「日ノ本」と呼ばれ、
・次に進出した縄文人(海人)が渡島半島の「渡党」と呼ばれたと考えるというシナリオ。

旧石器の先住者「日ノ本」は、諏訪大明神画詞の平安時代の時点で、二万年近く北海道に閉じ込められていたわけですから、言葉が通じないのは当然です。
そして彼らが大雪山系(白滝、置戸、十勝)の黒曜石を厚真の渡党(縄文)にもたらしたと考えられます。

もう一つの「唐子」は、樺太(カラフト、サハリン)から南下した北方民族で、北海道では礼文島(れぶんとう)を起点にオホーツク沿岸、日本海沿岸に定着した海人族でした(樺太アイヌ)

イヨマンテなどの熊信仰やイナウ(削掛、shaved sticks)など、本州の縄文では見られない、後にアイヌ特有となった祭祀は、北方文化を起源とします。



続縄文と擦文時代の間に出現した「オホーツク文化期」は、樺太産の琥珀の交易を契機に生まれたと考えられます。
いずれにしても、三族は交易を通して文化的にも融合し、諏訪大明神画詞に書かれ、現在に至る「アイヌ文化」を形成したと考えるのが自然かと思われます。
*1:絵巻物であった原本は失われ、現在は文字だけの写本が複数残されています