アイヌ出身の言語学者 #知里真志保 は『前代のアイヌは「川」に対して(現代人とは違う)特別な考え方を持っていた』としています。川は主に人間の女性に例えられる生き物であり、「川口」は「出口=帰結点」ではなく「入口=出発点」だったということ #地名アイヌ語小辞典 #三内丸山遺跡
目次
本文
アイヌ語の「川」が示唆する長い文化統合の歴史
前回、アイヌの川の呼び方には pet(ぺッ)と nay(ナイ)が混在しているけれど、アイヌ出身の言語学者・知里真志保(ちりましほ)は、
pet は固有アイヌ語で、nay は外来語(北方ユーラシア大陸系)の可能性があると考えていることを紹介しました。
このことは中世日本(鎌倉時代)に成立したアイヌ文化が、旧石器時代〜縄文時代〜オホーツク文化期(続縄文〜擦文時代)を通じて、緩やかに統合してきた長い(二万年の)歴史を示唆します。
アイヌの人々の「川」に対する考え方
このほかに、知里真志保は「前代(先祖または古い)」アイヌの人々は「川」に対して(現代人とは違う)特別な考え方を持っていたとしています(著作「地名アイヌ語小辞典」pet の項)

「川」に人体の名を当てる
水源は、pet-kittay「川の頭」
中流は、pet-rantom「川の胸」
河口は、pet-o「川の陰部(尻)」
支流は、pet-aw「川の腕」
川の曲がり角を「ひじ」を意味する sittok
川が曲がりくねって流れている様子を「小腸」を意味する kankan または yospe


「川」を人の様子や営みで表現する
人間同様に、
夏やせもする(→settek)し、
死にもする(→ray=古い川に水が流れず停滞している様子)
交尾もする(→ukot、utumamu→交尾、絡み合う=合流)
その結果として、子を産み親子連れで山野を流れる。
pon→子・小
poro→親・大
onne→大・老・親
(pon、poro、onneは、湖や沼にも使う)
si-(接頭語)=大・親・川の本流
mo-(接頭語)=小・子・川の支流
海から来て山へ行く生き物
「川上−川中−川下」と言うように、私たちは川を源から河口に向けて思考しますが、
アイヌの人たちはそれと反対に、川は海から上って山へ行く者 と考えていたとして、いくつかの言葉を例に説明しています。
oman-pet(オまンペッ)「山奥へ行っている・川」
sino-oman-pet(しノマンペッ)「ずっと・山奥へ行っている・川」
rik-oma-pet(リこマペッ)「高い所に・登って行く・川」
私たちは水の流れに沿って、水源を「出発点」と考えるのに対し、
海岸線や水辺の集落を定住地としたアイヌは川の「帰結点」と考えていたようです。
このような視点の逆転は、縄文文化を考える時の重要なヒントになりそうですね。
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縄文時代は海が深く(縄文海進)、現代は内陸部に位置する縄文遺跡の多くが、そもそも海辺にあり、知里真志保が指摘するアイヌの視点はきわめて「縄文的」であると言えます。
例えば、三内丸山遺跡(青森市)は、今でこそ沖館川中流に位置しますが、最盛期(5,500〜4,000年前)は陸奥湾に面した沖館川口にあったと考えられます。
そう考えると大型掘立柱建物が「沖を見晴るかす見張り台、沖から見える灯台」であった可能性が高くなります。

話が少し逸れましたが、知里真志保はまた、次のように指摘しています。
(地名アイヌ語小辞典 pet の項より)われわれが川の合流するところを落合と名付けているのに対して、アイヌはpet-e-ukopi(ぺてウコピ)すなわち「川の別れて行くところ」と名付けているのもアイヌの考え方に出たものである。
もともとアイヌは海岸線に沿うて部落を作っていた。そして内陸の交通は主として川によったのである。近くを流れている川をさかのぼってサケ・マスをとったりクマやシカをとって暮らしていたことから、そういう生活に即して、川をさかのぼって山に行くものという考え方が、自然に生まれて来たのである。
アイヌにとって「川口」は「出口」ではなく「入口」の気持ちなのである。

なお、川はふつう女性に考えられている。petには「濡れている」という意味もあり、pet-chep「濡れた・魚」、pet-ota「濡れている・砂浜」などの用例があるところから考えて、語源はあるいは、pe-ot「水・多くある」から来ているかも知れない。
