太子の #十七条憲法 の第一。#以和貴。現代の法話では「極端な考え方に偏らないこと」を説いていると教えられます。ただ、それは後の時代の解釈で、私は、太子が生きた「緊張の時代の緩和」を唱える「ひとつのクニ」の切実な思想だったと思うのです。#熊野詣 の歴史と絡めて考察。
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目次
本文
蟻の熊野詣
平安時代に「蟻の熊野詣」といわれるほどに賑わったといわれる熊野詣。
歴代の法皇・上皇から天皇・貴族、庶民に至るまで、
極楽浄土を祈って、熊野三山までの150〜200キロを歩きました。

熊野(クナト)の神に極楽浄土を祈る…
つまり、日本最古の神に、あの世での平安を祈ることを意味します。
まさに 神仏習合 の信仰スタイルですね。
【歴代法皇・上皇。参拝ランキング】
後白河法皇(34回)平安末期
後鳥羽上皇(29回)鎌倉前期
鳥羽上皇(21回)平安末期
白河上皇(9回)平安中〜後期
当時、平安京(京都)からは、伏見から舟で淀川を下り、
大坂天満の八軒屋に上陸。
そこからは熊野三山までの長い陸路となります。
大坂からは、熊野権現の分霊を祀った九十九の王子社が道標として祀られているため、
参拝者は王子社を巡拝しながらの行程となります。
もちろん法皇・上皇クラスともなると、自分で歩くことはなく、神輿に乗っての巡拝。
庶民・世俗にも触れ合う、観光気分の物見遊山という部分も少なからずあったことでしょう。
大阪市内の九十九王子社
現在の大阪市内には、6社があったとされています。
第一・窪津王子社(天満八軒屋付近⇒四天王寺石鳥居付近⇒現在は堀越神社境内に祠)
第二・坂口王寺社(中央区・南大江公園内に石碑)
第三・郡戸王寺社(中央区・高津宮境内に石碑)
第四・上野王子社(天王寺区上本町付近・不明)
第五・阿部王寺社(阿倍野区・阿部王寺神社。唯一現存。★御烏社が鎮座)
第六・津守王子社(東住吉区または住吉区・不明)
四天王寺境内(南大門)の熊野権現礼拝石

四天王寺には、
・石鳥居(西大門)付近に、窪津王子社が遷座した熊野神社が鎮座していたほか、
・南大門には、熊野権現礼拝石があります。
聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の意味
四天王寺は593年(古墳時代末期)、
丁未の乱(587年)で物部守屋を滅ぼした後に
「和のクニ」の統合のシンボルとして聖徳太子が創建しました。
推古天皇の御世を祝い、日出ずる東のクニから「飛ぶ鳥」の如く、
飛鳥時代の始まりの年 です。
四天王寺は、南北に金堂と五重塔が並ぶ伽藍形式として知られていますが、
弥生時代的な「東西」意識に加えて、
「南北」意識が融合した、
日本古代史初の公共建築物です。
東西は稲作の弥生時代以来の「古神道」、
南北は北部インド(お釈迦様)を源流とした「仏教」ととらえることができ、
聖徳太子は、伽藍造営により、古い(モノノベ)神道と新しい仏教の調和を説いたと、考えることができます(転法輪)

四天王寺の創建をキッカケに、東西南北の概念が庶民まで根づき、
飛鳥時代以降の京(みやこ)の都市計画の基本にもなります。
後の平安時代から、伽藍を中心にして、
西に「極楽浄土」、南に「熊野三山」を臨むと考えられ、
二つの聖地を結ぶ意味で、熊野詣の一大信仰拠点となりました。
実は、四天王寺の方位には、もうひとつ、
今では「見えない」ため、隠れてしまった意味があると、私は考えるのです。