はじめに
遠野土淵の #山口集落。柳田國男に遠野の数々の伝承を伝えた #佐々木喜善生家 #山口の水車 #薬師堂の鳥居 など遠野らしい景色が広がる静かな村でした。#ザシキワラシ 伝承 孫左衛門の屋敷跡、#カッパ淵 など
目次
本文
遠野土淵 山口集落入口の火石の石碑群
(39.36593985457463, 141.6017464906985)
姥捨て伝承で知られるデンデラ野に行く道で通りがかったのが、火石の石碑群(グーグルマップでは大槌街道跡で検索)
ここは遠野の里の境界で、東の海・太平洋側の大槌町に通じる大槌街道と、北の山・小国に通じる小国街道が交差するところ。
案内より一部)遠野物語序文に『路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず』とあるとおり、遠野には多くの石碑がある。この火石の石碑群にも江戸、明治期の巡礼塔や馬頭観世音(ばとうかんぜおん)、庚申塔などの石碑が立ち並ぶ
一番左の少女の顔が彫られた石碑は新しそうですが、ザシキワラシでしょうか。
ザシキワラシの碑の案内)ここは大槌街道と小国街道の分岐点で、かつては駄賃づけの馬の鈴の音がにぎやかに鳴り、祭文語り(さいぶんがたり)や歩き巫女など、さすらいの旅人たちが往来して諸国の物語を伝えました。この近くの元山伏(やまぶし=修験道の行者)の北川家には8体のオシラサマがまつられています。オシラサマはマントを着た小人のような形をし、長者の娘と愛馬の悲恋の物語をもつ、養蚕の神さまです
遠野の不思議な伝承の数々が生まれた歴史的、地理的背景が書かれていますね。駄賃づけとは小遣い稼ぎというほどの意味です。
街道筋の出入り口は古くは サイ「際」「幸」「塞」と考えられ、こういった石碑が建てられ、場所によっては石碑群になっています。長旅の目印にもなりました。
良いものは「幸」として受け入れ、悪いものはそこで引き返す「塞」のサイノカミ信仰の名残と考えられます。
遠野土淵 山口集落
火石の石碑群のあるところから向かって右(東)に進むと山口集落。
先日紹介した、柳田國男に遠野の伝承を語った佐々木喜善(ささききぜん)の生家があります。南部曲がり家の構造が残されています。
山口の水車
ザシキワラシのいた屋敷跡
案内)この家に童女の神(ザシキワラシ)が二人いると紹介されている。孫左衛門は村の旧家で、二十人もの雇人がいるほど栄えていた。ある年、この二人が家から出て行ったのを村人が目撃した。ほどなくして家の者はキノコの毒にあたり、遊びに来ていた家娘一人を残し、みんな死んでしまった。ザシキワラシのいる家は栄え、出てゆくと没落するという。今は井戸と墓のみが残る。
ザシキワラシは、出て行った後が怖いですから、見るだけに限るということですね。笑
もうひとつのカッパ淵
山口集落に、遠野のもうひとつの河童淵(かっぱぶち)がありました。
案内)姥子淵とも。遠野物語第58話では、ここにいた河童が「新屋」という屋号の家の馬を淵に引きずりこもうとしたが、逆に馬の力に負けて、馬屋まで引っ張られて家まで来てしまった話が紹介されている。村人たちが集まり殺すか許すかを評議し、結局今後いたずらしないことを固く約束し、逃がしてやった。河童は村を去り、この上流にある相沢の滝に移ったという
草原になぜか朽ちた洗濯機。ダイヤルのあたりを目にすると、カッパに見えませんか。いや河童の洗濯機、もとい、お風呂だったのかもわかりません。