ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

日本の謎の古代史 考える時のポイント(4) 地球規模の変化と縄文時代・弥生時代

20000年前、氷河期。最も海が低い時期で海抜は現在より120m低かった(-120m)

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20000年前の日本列島。古代大阪。古代淀川

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20000年前(石器時代)の古代大阪平野

樺太~北海道~本州~四国~九州は陸続き。瀬戸内海はない。

南方ルートは海路で、北方ルートは陸路で、それぞれ移動してきたグループが想定される。北方ルートは氷河期の当時は極地に近く、人口密度の点から、ヒトの移動は南方メインと考えられる。

16000年前、縄文時代 始まる(-120m)

●15000年前、ウルム氷河期終わる(-120m)

●12500年前、寒冷期終わり。縄文海進始まる(-120m)

●8000年前、現在の海抜(±0)

地球の温暖化で、4500年の間に海が120mも深くなり、列島はこの時期から孤立した。

1年で2~3センチのスピードで海が深くなるペース。

当然、縄文の人々は、ジワジワと海から山に追い立てられることになる。

この事実は、日本列島の沿岸海域(海底)に、多数の石器時代縄文時代の「海底遺跡」が存在することを示唆する。海洋考古学の研究アプローチが発展することを期待している。

個人的にはこういう用途で人工知能(AI)の予測機能を活用できると思う。海底遺跡の位置予測システムのようなもの。複雑なファクターを教え込む必要があるが、そのプロセスを実践するだけでも考古学は理系学問も加えた総合的な方向に変わってゆけると思う。

6300~5000年前、さらに上昇(+4~5m)

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縄文大海進で海水面が最も高かった時期の大阪

現代よりも温暖で、三内丸山が最も栄えた時期。

海が近く温暖な気候は「狩猟 & 農耕による定住」という世界に類を見ない独特の縄文文化を育んだ。この場合の農耕は主に樹木の栽培。

三内丸山ではクリの栽培が確認されているが、全国レベルでは、ドングリや果実が収穫できる広葉樹種が中心だった。現在の「里山」の原型。

また、列島各地で見られる醸造、発酵食、保存食のスタイルは、元をたどれば、縄文文化の継承だ。

後の神社建築に繋がる巨大木造建築技術(溝くい)も、縄文時代から引き継いだ(三内丸山の灯台建築物、大型宿泊施設 ←開物発事説

灯台・大型宿泊説が正しければ、海進期・北海道~日本海沿岸(高台)の縄文遺跡で、三内丸山と同じような巨大な木造建築物のこん跡が見つかるかも知れない。

3000年前、弥生時代 始まる(+1m~±0m)

縄文晩期~弥生初期にかけて、地球規模の寒冷化が進み、海水面が4~5メートル下がる「小海退」が起きる。

三内丸山は寒冷化でクリの栽培ができなくなるとともに、海が遠くなった。海の幸山の幸に恵まれた環境ではなくなり、やがて放棄される。人々は海岸に近いところ(河口の扇状地)に移住する。

縄文大海進に比べて海抜の変化はわずかだが、海退で現れた海底に河川からの土砂が堆積して現在の平野を創る。

このクニビキ現象・クニウミ現象に適した食料として「コメ」が選択され、水稲栽培の弥生時代が始まった。

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2500年前・河内潟の時代(弥生中期)

●2000年前、現在の海抜(±0m)

水稲栽培はたいへん優れた循環システムであるが、水が豊富であることが条件だ。

大陸の大河にくらべ、古来、日本人は細い水系から広範囲な水田に水を引くこと・水で潤うことを飽くことなく願い、取り組んで来た。日本古代史の骨格と考えるようになった。

古墳時代(西暦250頃~600年)

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1600年前・河内湖の時代(古墳時代、百舌鳥・古市古墳群の形成、和の五王時代)

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お知らせ(2019年8月25日16時現在)

(16時)スター機能は復旧した模様です。ご迷惑おかけました。原因は今朝、アカウント設定で「購読中のブログ」→「更新通知メールを受け取る」のチェックを外したことに関連したエラーのようでした。(チェックを元に戻しました)

奥明日香・飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社 斉明女帝の雨乞い神事(1)★

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女渕あたりの小さな滝

奥明日香訪問。前回の続き

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「あすかのかわかみにいます・うすたきひめのみこと・じんじゃ」・・・神社名の文字数と長さでは日本一、ギネスかも知れない。

日本書記・皇極天皇元年条(642)に、斉明女帝が皇極天皇の時に、奥明日香で雨乞い神事を行ったことが書かれている。いくつか候補地があるが、まずは飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社を訪れた。

日本書記・皇極天皇元年条は記事末にあらすじを紹介。興味のある方はご覧ください。

飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社(あすかのかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)

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飛鳥川にかかる女綱(めずな)のすぐそば。

読んで字のごとく「飛鳥川の川上におられるウス多岐姫様を祀る神社」だ。

奥明日香の四ヶ大字(おおあざ)、栢森(かやのもり)、稲渕(いなぶち)、畑(はた)、入谷(にゅうだに)の郷社。

郷社とは(複数の)ムラで管理していた神社のこと。

惹かれたのは「多岐」の二文字。宗像三女神の「おたきさま」の神名、つまり、言霊だ。

なお、神功皇后応神天皇も祀られており、宇佐八幡を勧請(おまねき)した時に「ウス」がついたのだろう。古代、霊力の強い神様が後で勧請された時に、古い神名に付け足されることがあったようで、その好例だ。

さて御祭神は? ・・・残念ながら神社石碑横の由緒書きが古くて読めない。

そこで飛鳥の伝承本をあたった。「飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社は水神さんで、古事記イザナミの命に出てくる水の神様「みつはのめのかみ」をお祀りしている(飛鳥坐神社宮司談)」とあった。

「みつはのめのかみ」は罔象女神と書く。あくまでも開物発事の解釈だが「おたきさま」だ。住吉さん・楠珺社そば「おたき道」の先にあったのが「水浪女神(みずはのめのかみ)」の社であったことから学んだ。(水浪女神社は現在立ち入りできない)

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急な石段だった。下から15段、62段、20段、鳥居の坂、34段。合計131段

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飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社・本殿

宗像三女神と山岳・龍神信仰★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

宗像三女神は、三輪山奈良県桜井市)信仰を通じて、山岳信仰と結びつき、龍神さんとして各地で祀られるようになる。

三輪山には、入山の狭井神社一帯が辺津の磐座、山腹に中津の磐座、山頂に奥津の磐座がある。

奥津宮が高龗神(たかおかみのかみ)、中津宮罔象女神(みつはのめのかみ)、辺津宮が闇龗神(くらおかみのかみ)に対応する。

闇龗神は暗龗神・厳龗神とも。厳島神社の「厳」。厳島神社の御祭神は三女神だが、主役は市杵島姫(いちきしまひめ)つまり弁天さんだ。

さて、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社、それに神社前の飛鳥川には滝がない。

ここで斉明女帝の雨乞い神事が行われたとの説もあるが、もう少し奥、栢森のはずれにある女渕にいってみることにした。(続く)

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日本書記・皇極天皇元年条(642)現代語訳/奥明日香は日本書紀でも水と雨の神様が坐(いま)すところと書かれている

皇極天皇元年(643)六月はひどい旱(ひでり)だった。七月、村々の巫(みこ)が牛馬を犠牲にして土地の神々を祀っても、祀る場所を繰り返し移しても、川の神を祀っても、効果がなかった。そこで蘇我大臣(蝦夷)は仏儀を行って雨乞いをすることを決めた。四天王像を並べ、たくさんの僧にお経を読ませて小雨が降った。数日後再び祈ったが雨は降らなかったので読経をやめた。八月、皇極天皇飛鳥川の南渕の川上に行幸し、ひざまずいて四方を拝された。天を仰いで祈ると、雷がなり大雨が降り始めた。雨の降り続くこと五日間、国のすみずみまで潤した。

※文中の「南渕」とは稲渕(飛鳥川)あたりと推定される。その川上、つまり、フナト川の流れる栢森~畑のどこかと考えられる

※ここで書かれている巫(みこ)は祝部(いわいべ)ではないかと考える。ゆえに「巫女」とは書かない

※祝は「ほおり」「ほふり」とも読む。「牛馬を屠(ほふ)る」はここから来ているのだろうか

日本人のルーツ・縄文の謎に迫る二人の研究者と研究成果 考古学が進化する時代

縄文時代から歴史を振り返ることで、自分たちのルーツ、弥生期以降の日本古代の姿が浮かび上がってくる。

縄文時代について目を引く研究成果の発表が続いている。

国立科学博物館の二人の研究者の最新の成果に焦点を当ててみた。

それにしてもお二人ともカムナビたお名前だ。海部(かいふ)さんに至っては海人族「アマベ」そのもの (´▽`)

神澤秀明さん(古生物学、古人類学)

● ゲノム解析で判明した縄文女性の遺伝子の特徴

・目の色が茶色、シミが多く肌の色が濃い、細く縮れた髪の毛、血液型はA型、耳垢がウェット、お酒に強い、脂肪をうまく代謝できない

・臼歯の核DNA(全遺伝情報)、北海道礼分島・船泊遺跡

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● 遺伝子から続々解明される縄文人の起源 ~高精度縄文人ゲノムの取得に成功~(プレスリリース(PDF)2019年5月、神澤秀明ら)

つい最近まで保存性が良いミトコンドリアDNAによる研究が中心だったが母系遺伝に限られることがネック。

父系を含む、全遺伝(ゲノム)情報の解析には、細胞の中心、細胞核の遺伝子による研究が必要だった。

今回、船泊遺跡の縄文女性の臼歯から抽出された核遺伝子の研究成果が発表された。

現在は女性一例にすぎないが、この他に男性を含む複数人の解析が進められており、今後の成果が楽しみだ。

● 縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く(神澤秀明、国立科学博物館、2015年)

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核ゲノムの解析から見えてきた日本列島人の成り立ち。下が最新モデル

一般的に「縄文人は原日本人、弥生人は渡来人」のようなイメージで捉えられていることがあるが、それは全くの誤解。

ゲノム研究では、縄文の人々の中に渡来民が混ざりこんで現在の日本人となったというシナリオ。つまり私たちの中に(地域による濃淡はあるけども)縄文の遺伝子が確実にあるというわけだ。

最新の研究では、縄文人が従来考えられていた時期よりも古い時代に(列島に)孤立した集団である可能性が出てきた、という点が新しい。

これを解くには、気候変動で、海が深くなったり浅くなったりする「海進・海退」、地球学的な精度の高い研究が必要だ。

考古学は進化する、変わって行かなければならない

なお本研究で神澤さんは弥生時代を「3,000~1,700年前(紀元前1000年~西暦300年)」、最新の時代区分で考察している点に注意。

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海部陽介さん(海洋考古学、実験考古学)

● 【台湾~与那国島】3万年前の古代丸木舟・実験航海プロジェクト

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「最初の日本列島人は3万年以上前に海を越えてやって来た」を仮説として、当時の材料で丸木舟を造り、3万年前の徹底的な再現による実験航海を行った。

2019年6月25日~7月13日(本番期間、航海は3日間)に行われた実験航海は成功した。

● 日本一“マッチョな”縄文人集団

「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」チームが、平成30年に発表した成果。

詳しくはリンク先資料を読んでいただく方がよいが要点整理。縄文晩期の話だ。

・海岸付近の縄文集団は、内陸平野の縄文集団より上腕骨が太い

渥美半島先端部の保美貝塚縄文人は極めて(太く)特異

・漕ぎ舟による外洋での漁に加え、活発な海上物資輸送(サヌカイトなど)が保美男性の上腕骨の極端な発達をうながしたと解釈される

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近畿地方二上山でとれるサヌカイト(鉱物、石刃や矢じりなどの原料)が紀伊半島から海路で大量に搬入されていた

二上山のサヌカイトについて、記事末にちょこっと書いている

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日本史上最大の水の祭祀史跡 神泉苑 祇園祭発祥の地 雨乞いのオールスター

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東寺 真言宗 神泉苑京都市中京区御池通神泉苑町東入門前町166。二条城の南

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東寺の所有でありながら鳥居。立て札の内容を記事末に文字起こし

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中央に空海さんが勧請した善女龍王社。朱色の反り橋は法成橋。周囲の池は法成就池

造営時、南北500m×東西250mの巨大さ

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京都市平安京創生館のジオラマ。各専門家が平安京の細部にわたり数年かけて復元。中央が神泉苑。北側に大内裏(皇居)。神泉苑の左右の路を数キロ南に下った区画に東寺

現在の地図に描いてみた。二条城のほぼ半分と南側の町域が平安京造営時の神泉苑

南北四丁(500m)東西二丁(250m)の巨体な禁苑(きんえん)、皇居の庭。

現在の境内地は造営時のほぼ中心になる。

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現在の地図に往時(最大時)の神泉苑を表示。北は二条通。南は三条通。東西は東寺の区画に合わせて作成。二条城は東西南北が少し傾いている

平安初期・祭祀に加え、遊宴や舟遊の場としてスタート

ジオラマでも再現されている通り、苑内には大きな池と中嶋(シマ)があった。

舟か、おそらく池の中に造られた参道(縄手)を通ってシマに渡ったと思う。

クニビキまたはクニウミを表現した古代神社様式だ。

(日本庭園は神泉苑より数百年後、金閣寺銀閣寺の時代の話となる)

この広大な皇居の庭では、祭祀に加えて、さまざまな行事(歓花、遊宴、舟遊、弓射、相撲など)が行われたという。

はじまりの頃は、神社としての古式と、庭園としての趣向の利用が混ざっていたようだ。

平安京・地下水脈の湧水地

京都は北部の貴船・鞍馬から、南部の伏見(巨椋池)に至るまで勾配がある。北部は花こう岩質の多い山と丘陵、南部は当時、湿地帯で、北部からの地下水脈がこのあたりで湧き出す地形で、そこに神泉苑が造られたそうだ。

平安中期、空海さんの祈雨、祇園祭・御霊会、小野小町

天長元年(824年)の大旱魃弘法大師空海が雨乞いをするよう天皇から命令され、その際にチベットの善女龍王を勧請(かんじょう、おまねき)し、雨を降らせたという。

貞観11年(869年)66本の鉾を立てて御霊会(ごりょうえ)の厄払いが行なわれた。これが祇園祭の鉾巡行の起源となった。

この時期から湧水の豊富な神泉苑は宗教的な雨乞いの場となるとともに、水は下流の田畑や都の灌漑、汲み水に利用されるようになる。

平安中~末期には、名僧に混じって小野小町が祈雨の歌を奉納したり、義経記静御前(しずかごぜん)が雨乞いの舞を舞ったりした。

ことはりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてもまた 天が下とは(小野小町

理屈から言ってこの国が「日の本」だから仕方ない。しかし世界を「天が下」ともいうのだから雨を降らせてくれないだろうか?

文学女子らしく「理屈」で雨乞いを天に説く姿が可笑しい。

この時代、天に雨を乞うには、巷で評判の美人を起用する、みたいな信仰でもあったのだろうか。

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(左)毎年の恵方に向きを変える恵方社。(右)もちろん弁天さんもおられる

立て札(文字起こし)

延暦十三年(794)桓武天皇平安京を造営する際、宮中の付属庭園として造られ、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名付けられた。境域は南北四丁東西二丁に及び、苑内には大池と中嶋の他、乾臨閣や釣殿、滝殿も設けられた。歴代の天皇行幸され、宴遊、相撲、賦詩などの行事を行い、弘仁三年(812)嵯峨天皇は日本で初めての桜子花見の詩宴を催した。弘法大師空海は天長元年(824)日本中の旱天の際、勅命により善女龍王を勘請し祈雨の法を修した。以降、神泉苑は名僧が競って請雨法を行う霊場となった。貞観五年(863)には初めて神泉苑で御霊会が執行され、それが祇園祭の発祥となった。当苑の法成就池が「御池通」の由来にもなり、また五位鷺の名称や静御膳の祈雨の舞、小野小町の歌など多くのあらゆる由緒を持つ。現在は国指定の史跡であり東寺真言宗の寺院である。

さらに詳しくは知りたい方は、記事末の案内板の文字起し、またはWikiを参照してください

ja.wikipedia.org

GooGleアドセンスよりいただいた 3枚のお札

適当に読み散らかしてくださいm(__)m

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法善寺横丁

1まい~2まい~3まい~。

1枚目。そもそもアンタのサイトが、ネ~じゃんW(江戸っ子、もしくは、若者)

2枚目。一応見に行ったんじゃが、コードが貼りついとりゃせんがね(広島弁

3枚目。あんなぁ。プライバシーポリシー違反でっせ(大阪弁

1枚目、サイトがない!

ん~ん。便秘じゃない。いらいらクロレッツ噛み過ぎてむしろ緩んでいる。

昨夜1時間ヘルプを読んでわかった!

「まずドメイン登録 ⇒ そのあとサブドメイン登録」ということね(二回登録)

ドメインとは我が家でいうなら、zero-position.com。(この状態で申請出したら一枚目のお札いただいた)

サブドメインとは、www.zero-position.com。

・・・とりあえず行けたみたい。

2枚目、広告コードがない!

グーグル様からいただいたコードをどこに貼り付けたらよいやら。

最初、設定で<HEAD>~</HEAD>の空欄があったので、そこにコピペして申請したらアウトっ!

わからん・・・はてなのヘルプ

リンク先の「デザイン設定」クリックからの作業がわかりにくい!(改善要望)

デザイン→🔧工具マーク→サイドバー→モジュールを追加、でリンク先の画像の通りになる。→空欄に広告コードをコピペ

とりあえずPCで画面通りにできた。スマホは指示どおりコピペ。

・・・3枚目がまだ未解決なので結果はわからない。たぶん行けたろう。

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四天王寺さん亀の池。おや?できたかい?

3枚目、プライバシーポリシー違反!

これがまだ対応していない。

どうやら、箇条書きで書いたらよさげ。

どなたかお優しい人、ヒントといわず、

文面おしえてくださる方はおられんじゃろか。ゴホッゴホッ仮病

ついでにどこに書いたらいいかも。オンブニダッコ

いやっ!自分で頑張るッ!チラッ

お礼は「うまか棒」一本やま分け!(9年前に仕事で書いてたアメブロが生き残っていて残高24円もあった!)

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高津神社 梅の木

上賀茂神社(2)賀茂別雷神社・楢(奈良)の小川 藤原家隆

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風そよぐ楢の小川の夕暮れは禊ぎぞ夏のしるしなりける

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賀茂社の流れ。北西から流れてくる楢(なら)の小川が主流、北東からの御物忌川(おものいがわ)が合流した一帯北側に本殿。ならの小川が下って分流(沢田川)が造られ境内庭園・渉渓園を巡る。ならの小川は境外に出ると明神川に名を変える

地図では見えないが、ならの小川はもう少し上流で、北東からの御手洗川(みたらしがわ)と合流している。

境内図には記載がなく、HPではなぜか各川の名が詳しく紹介されておらず、調べるのに予想外に苦労した。

以前にも書いたが、下鴨社境内の流れは「せせらぎ」に対し上賀茂社は「川」のイメージ。

丘の中腹に鎮座するため上賀茂社の「なら(楢)の小川」の流れは勢いがある。

面白いのは楼門前の手水舎の「神山湧水(こうやまゆうすい)」の説明。

神山のくぐり水をくみ上げて使用しているとのこと。境内の由緒ある井戸水と同じ水脈の水ということで、地下水のことらしい。

賀茂社、下鴨社に共通して、古来「(オモテからは見えない)水脈や流れ」が重視されているのかも知れない。

藤原家隆という人。大阪「夕陽丘」の名の生みの親

百人一首で有名な「楢の小川」は上賀茂社で詠まれた。

風そよぐ楢の小川の夕暮れは禊ぎぞ夏のしるしなりける(藤原家隆

家隆(いえたか、かりゅう)は鎌倉時代歌人で、新古今和歌集の選者でもあった。

晩年は出家して四天王寺に入り、西側の丘に「夕陽庵(せきようあん)」を結んだ。

見晴るかす「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕陽に、極楽浄土を観想する「日想観」を修した地は「夕陽丘」と呼ばれるようになった。

江戸期までは、大阪湾、遠くは兵庫、淡路島まで見渡せた景勝地であった。

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西日が眩しい家隆塚(かりゅうづか)大阪市天王寺区夕陽丘町。私の地元

家隆塚のそばには陸奥宗光の歌碑もある。

ならの小川、渉渓園(1960年造園)

渉渓園は今上天皇浩宮徳仁親王)のご生誕にあわせて造園された。

上の銅板地図の右下、ならの小川が分流しているあたり。

古くはここにあった神宮寺の古池を改修・拡張した庭園で、古池には龍が住んでいたとされる。

庭園は昭和期で新しいものの「願い石(陰陽石)」や「睦(むつみ)の木」は神宮寺の頃の名残と思われる。

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陰陽石。睦の木はスダジイ(どんぐりの仲間)の巨木。ひとつの根から複数の木が生えている

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(左)楼門付近、奈良(楢)の小川(右)境内庭園・渉渓園の流れ

奥明日香・栢森の女綱 稲渕の男綱 綱掛神事(カンジョ神事)加夜奈留美神社のイクメン狛犬?

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一般的に狛犬の吽形(うんぎょう)はオス。イクメン狛犬

飛鳥川の源流域を「奥明日香」という。

明日香の中心(石舞台古墳)から、稲渕(いなぶち)、栢森(かやのもり)、入谷(にゅうだに)と源流域に入ってゆく。

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栢森(かやのもり)案内板。南北逆に注意。右下が石舞台方面

聖なるフナト川

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栢森集落内の流れ

栢森で、斉明女帝が雨乞いの儀式を行ったとされる女渕のある細谷川(フナト川)と、入谷方面からの寺谷川が合流して、飛鳥川になる。

フナト川は飛鳥川の源流とされていて、飛鳥京に住む天皇一族の飲料水をフナト川の谷で汲んでいたそうだ。

フナトは「クナト」が転じた古語。言霊、神の名の川であることから神聖な流れとして扱われていたのであろう。古代出雲の集落だったところにたまに残る地名で、地域によって「熊野」に変わったりしている。

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飛鳥時代、水に不浄なものが流れてはいけないということで、栢森一帯に人は住むことはなく、今の集落ができたのは平安期以降という。

綱掛神事(カンジョ神事)*神所と書くようだ

綱掛(つなかけ)神事は栢森(飛鳥川上流)と稲渕(下流)の両大字に伝わっており、毎年正月11日に斎行され、カンジョ神事とも云う。

子孫繁栄と五穀豊穣とともに、悪疫などが道と川を通って侵入するのを防ぎ、住人を守護するための神事とされる。

神事とはいえ、栢森は仏式、稲渕は神式で行われる。

「幸(サイ)」と「塞(サイ)」の古代フナト信仰をベースに神式・仏式の混交がみられる。

男綱・女綱は、石舞台古墳から県道15号線(桜井明日香吉野線)を、栢森まで進む飛鳥川沿いの道中で見ることができる。

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栢森の女綱(陰物)、稲渕の男綱(陽物)

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栢森の女綱(陰物)、稲渕の男綱(陽物)

「カヤ」と「カンジョ」

栢森の「カヤ」は、大字の氏神加夜奈留美(かやなるみ)神社のそばに何本か立っていた栢の大木に由来したという説がある。

「カヤ」の地名は出雲族の信仰の対象となる所が多く、フナト川の「道と陰陽の信仰」とあわせて、古代出雲を感じさせる。

小字に「カンジョ」というところがあるらしい。

出産の時にはそこで産湯を使い、また、家族に死人が出たときには寺での供養とともに、カンジョの流れで供養するという。

栢森を訪問した時(8月10日)、川の流れの中にお盆の供養花が置かれた場所があり不思議に思ったが、おそらくそこだろう(撮影は自粛)

龍福寺。加夜奈留美神社(滝本神社)のイクメン狛犬

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龍福寺(浄土宗)と加夜奈留美神社。隣り合っている

西暦700年ごろ、義淵が開基した五山のひとつ(栢森・龍福寺、稲渕・龍福寺、稲渕・龍泉寺、下畑・常龍寺、岡・龍蓋寺)すべて龍の名がつく。

明治初年に日本画家で有名な富岡鉄斎(とみおかてっさい)が、石上神宮(いそのかみじんぐう)の宮司時代に、葛神(くずのかみ、滝本神社)の小さな祠を復興させたのが加夜奈留美神社。地元では滝本神社の方が通りがよいそうだ。

鉄斎さんはどのような古代出雲を観て立派な神社を建立したのだろう。一般には知り得ない神職なりの伝承(秘事)があるのだと思う。

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加夜奈留美神社。御祭神・加夜奈留美命(オオクニヌシの息女・下照姫)

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狛犬。右・阿(あ)形。左・吽(うん)形。吽形の足に子どもの狛犬がまとわりつく

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境内のふるびた遊具

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栢森

イクメン猫ダイちゃん

イクメン狛犬ぐらいで驚かない。なぜならイクメン猫(id:kaedeya)がいるからだ。ひそかにオオ(ダイ)クニヌシとよんでいる。父のチチに育てられた仔猫たち。最初七匹だったが、もらわれて今は三匹になった。

楓屋さん家で里親募集中

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三匹とも健康診断済み(楓屋さん写真お借りしてます)

水の祭祀の記憶(0)大陸の龍は天空を駆け、日本の龍は大地を流れ下る(龍神信仰)

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しんぶんしアニマルアーティスト・なんめんよしこさん作。全長18メートルの龍

日本の謎の古代史を妄想するこのブログで、これまで考えてきたことを中心に書いているが、書きながら調べ、現地に足を運び、新しく気づき始めたこともある。

そのひとつが「水の祭祀」

この国の古代のクニ造りでは「水と流れの利用と制御(コントロール)」が神々の信仰と深く関わってきた。

例えば、大陸の龍は天空を駆けるが、

日本の龍は大地を流れ下る(龍神信仰)

それほどの違いだ。

龍は国土を潤し五穀の恵みをもたらす。

火を鎮める。おくどさん(竈、かまど)には不可欠。

適度に現れなければ困る。居なければ困る。

しかし時に暴れてすべてを破壊する。

人々の祈り。現代から見れば宗教・呪術であっても、古代には科学であったかも知れない。「様式」とか「儀式」はそういうところから生まれてきたと思う。

*****

少し大きなテーマなのでシリーズで書きます。本記事は目次にもなります

リンクを貼ってあるのはアップ済み。

● 平安京 神泉苑(しんせんえん)
● 奥明日香 水信仰の記憶
● 神仏混沌の時代 巫女を貫いた斎明女帝
● 斎明女帝の雨乞い神事(1)
● 斎明女帝の雨乞い神事(2)

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奥明日香・女渕(めぶち)あたり。斎明女帝が雨乞いをしたと伝承される

*****

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あうる京北(京都府立ゼミナールハウス)京都市右京区京北下中町鳥谷2。京都市内から周山方面。車で約一時間。遠いですご注意

上賀茂神社(1)賀茂別雷神社・すずやかに鈴なりの音ひびく 片山御子神社・紫式部、新宮神社・高龗神

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楼門と拝殿。拝殿の向こうに本殿と権殿。御祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を祀る「本殿」と常設の仮殿「権殿」が並んでいる(撮影禁止)

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拝殿から本殿・権殿の方(ここまで撮影OK)鈴の絵が描かれている

上賀茂神社の拝殿には神社につきものの鈴がない。代わりに「鈴の絵」が描いてあった。

ところで神社でじゃらんじゃらん鳴らす鈴は何ていうのか調べてみたが、神社本庁サイトには「社頭の鈴」と素っ気なく紹介されていた。

上賀茂神社の境内には8摂社・24末社があるが、中でも「社頭の鈴」が「鈴なり」の2社を紹介。

片山御子神社(片岡社)縁結び恋愛成就、子授け安産 紫式部ゆかりの社

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片岡社(片山御子神社)

御祭神は上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷神のお母上、玉依姫命。片岡社と云うことが多い。

上賀茂神社の中で第一の摂社ということで、天正の1591年、朝廷より「正一位」の神階が授与されたという。

かの紫式部がたびたび参拝した社で、ここで和歌を詠んでいる。(案内板・文字起こし)

賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍ければ、

ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし(新古今和歌集 巻第三 夏歌)

【通訳】ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、この片岡の社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう

ハート型の絵馬の願い事、鈴なりの音とともに届けばホトトギスが啼くかもしれない。

新宮神社(貴布禰神社心を豊かにし身体を守る(身体健全、若返り) 癒しの社

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新宮神社

境内の「最奥」に鎮座。貴布禰神社とも云う。御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)

高龗神は水源域の女神「出雲の奥津様」だ。

上賀茂神社HPでは「鞍馬の貴船神社(貴布禰総本宮)は江戸期まで当社の摂社であったが、洪水や冬季の吹雪で貴布禰詣りができなくなったので新たに境内に祀った」、御利益は「祈雨・止雨、灌漑・治水、舟運、身体健全、若返り」とある。

人気の「鞍馬の貴船神社」が、新宮神社の摂社だった?

意外な感じだがHPにそう書いてある。

江戸期以降の神社なので新しいものの、上賀茂神社の中でも「奥」という特別な位置に鎮座している意味を考える必要がある。

運が良ければ、龍の神様・神楽「賀茂の舞」を見学することができる。(時間中、30分ごと開催)

癒しの鈴なりの音は、せせらぎの音のように優しかった。

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ホトトギスといえば

信長、秀吉、家康を例えた短歌を思い浮かべてしまう。

さて、ホトトギス(将来の結婚相手)をどうするか。したいか。

なかせてみせるか、なくまで待つか。

信長はないと思うが。

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上賀茂神社(0)賀茂別雷神社・創建前後の歴史解説★

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上賀茂神社の立砂。本殿に向かう手前の細殿・前にある。御祭神・賀茂別雷神が最初に降臨した神山(こうやま)を模したもので、神籬(ひもろぎ、神様が降臨するヨリシロ)

上賀茂神社、正式には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。

鴨川と高野川の合流点より、鴨川沿いに約4キロ北に上がった丘の中腹にある。

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賀茂社本殿の北北西2キロ奥にある円錐状の神山(こうやま)。上賀茂社社務所そばから撮影

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境内図。境内には8摂社、24末社。丘の中腹を2本の川が流れて来て合流点より北側に本殿。奈良(楢)の小川

確実な創建は天武6年(679年)

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賀茂社の楼門と本殿(楼門を入ってすぐ)

賀茂社の略歴では、神武天皇の代に神山に御祭神が降臨、(一千年の時間が空いて)欽明天皇28年(576年)に賀茂祭葵祭)が始まったとなっている。

記録に残るほぼ確実な創建年は679年。第40代・天武天皇6年「山背国をして賀茂神宮を営ましめ給う」とある。

「賀茂神宮」は上賀茂と下鴨をあわせた呼び方だった可能性が高い。

創建前後の歴史解説。やや妄想入ります

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

● 葵祭は、物部氏滅亡の丁未の乱(587年)直前に始まった *物部支配がピークのころ

● その後、飛鳥時代。主に斉明女帝の時代(皇極642~645⇒斉明655-661の重祚) ★神仏混沌の時代。飛鳥京外での新神社創建は中断

● 白村江の戦い(663年、天智2年)で日本・百済遺民軍は、唐・新羅軍に大敗 ★組織的な海上戦と最新の兵器に敗れる、多数の兵と鉄を失う

● 天智天皇は飛鳥板蓋宮を棄て近江大津宮秦氏領)に遷都(667年)★秦氏が有する近江の製鉄技術と生産力を求めた

● この時期に秦氏は山背(現在の京都)一帯で領土を拡大 ★上賀茂と下鴨の構想が練られた

● 天武天皇期(673~686)に神社仏閣の再構築・再編成が行われた(~持統天皇期) ★神仏並立の時代。上賀茂・下鴨の賀茂神宮がスタート

● 一部の神社は仏閣として再建された模様(矢田寺など)

● 持統期を経て中央集権の奈良時代に移行してゆく流れで、平城京の造営・遷都に併せて、★伊勢神宮が上賀茂・下鴨を参考に再構築され、出雲大社が創建された

キーマンは天武天皇

斉明女帝の息子で、兄が中大江皇子(第38代・天智天皇)。白村江に大海人皇子として参戦した。

出征前に戦勝祈願し、凄惨な戦場を見聞し、帰国後は反撃を怖れ国家鎮護を求めた。

人生を通して高いレベルの霊的守護を求めた天皇

自ら発案した藤原京で新しい国家づくりに乗り出しつつ、下火となっていた神道を再構築し、仏教も重視する政策をとった。

686年に崩御

遺志を継いだ皇后が第41代持統天皇となり、夫が進めていた日本書記、古事記を完成させた。

シリーズ目次(リンクありはアップ済み)

● 鈴なりの音が響く 片岡社、新宮神社
● ならの小川 藤原家隆 渉渓園の夏景色

京都盆地の古代豪族

天武期の「神道再構築」の先駆けとして、古代から山背・出雲族(先の出雲氏)に厚く信仰されていた下鴨社を再建(おそらくいくつかあった社をまとめた)し、同じように上賀茂社も創建(後の賀茂氏)し、賀茂神宮としてスタートしたのではないだろうか。

そう考えれば、鴨川上流一帯、出雲氏賀茂氏の「いびつな」エリア割りと「2つの神社があることの意味」を推理しやすくなる。

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京都市考古資料館の展示パネル(京都盆地の古代豪族)

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宮都の移り変わり

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(左)結婚式(右)ヤタカラス・フィギュア付きおみくじ。熊野ルートの神社にある。つまり上賀茂神社が北限で終点

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下鴨神社(13)賀茂御祖神社・ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

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鴨川と高野川の合流点。現在は公園。右から鴨川、左から高野川。現在は公園

下鴨神社上賀茂神社賀茂別雷神社、かもわけいかづちじんじゃ)では境内を流れる水が違う。

鴨川に沿って約4キロ上流の上賀茂社は山腹斜面にあり、境内の流れは「川」のイメージ。

一方、下鴨社は平地に近い斜面に南北に長く、境内の流れはゆるやかな「せせらぎ」。

現在、鴨の水は境内を流れていない

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下鴨神社境内図。井上社・井戸から船島を流れる「奈良の小川」は手水舎付近・南口鳥居の南の橋から「瀬見の小川」に名を変える

下鴨神社の西側を「瀬見の小川」、境内東側を「泉川」が流れる。

● 瀬見の小川は、井上社の井戸から湧く「奈良の小川」が源流。

● 泉川は下鴨神社北部(岩倉一帯)松ケ崎の末刀岩上神社付近を通り、下ってくる。

末刀岩上神社は「大炊殿」のイワクラ「水ごしらへ場」の立て札に書かれていた式内末刀社のことで「水の神」を祀っている。

少し意外だが、現在、下鴨の境内には、鴨川の水は流れていない。(泉川は高野川が源流)

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(左)奈良の小川。階段状のみそぎ場。立っている橋の下から瀬見の小川に名を変える。(右)泉川。烏の縄手・切芝の付近

謎?の短歌

石川や瀬見の小川の清ければつきも流れをたづねてぞすむ(鴨長明

詳しくないので解説はWikiから(要約)

下鴨社の歌合で神職のひとりだった長明が瀬見の小川に映る月の美しさを詠んだ歌といわれる。歌会では賀茂(鴨)の支流が瀬見の小川と呼ばれることを他の参加者が知らなかったために負けた。ところが長明は後に社の縁起にその旨の記述があることを公にし、「神社の秘事を明かすとは何事か!」と、他の神職たちに批判されながら、自分の歌が正しいことを主張したという。この短歌は人気を博し、後に「新古今和歌集」に収録された。

気になるのは「石川」。石川という名は下鴨周辺にない。枕詞だろうか?

泉川(の末刀岩上神社)のように、イワクラのある社から流れ出す水を暗示しているように思える。

あるいは、石組の暗渠(あんきょ、地下水道)で鴨川から水を引いていた(いる)のだろうか?

古代・井上社は「河合」にあったので、瀬見の小川の源は、鴨川からの、今とは別の水だった可能性は高い。

御祭神・賀茂建角身命(かもつぬみのみこと)が「瀬見の小川」と名付けたと「風土記山城国逸文に伝えられている。この時に井上社の移動、小川(水路)の付け替え等が行われた可能性がある。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

長明さん、「古代出雲のクニ」の「陰」の歴史を身をもって知る人だったのかも知れない。

鴨が賀茂に逆転された歴史をだ。

鴨長明という人

「ゆく河の・・・」の書き出しで始まる方丈記(ほうじょうき)の作者、鴨長明(かものちょうめい、1155~1216年、平安末期~鎌倉初期)。

下鴨・河合神社の禰宜神職)の次男として生まれた。子どものころから学問に秀で、とくに歌道に優れていた。

はたちのころ、失脚した兄に代わり禰宜になるチャンスがあったが叶わず宮中への出仕を続けた。

40代半ばに後鳥羽院に見い出され、歌会や催しに和歌を献じるようになり、宮廷歌人として御和歌所の寄人(おうたどころのよりうど)となった。

琵琶、笛、琴にもたけた人で、当時の風流の最先端を行く人だったようだ。

49で念願の河合社(ただすのやしろ)の神職に就く寸前だったが、当時の下鴨の禰宜の強硬な反対に遭い、再び叶わず。

「石川や・・・」のてん末を読めば、そりゃそうだろうと思うところもある。迎合するには才に長けすぎていた。

やがて宮中を辞し、50で洛北大原に隠とん生活を始めた後、世の無情と人生のはかなさを「方丈記」に記す。

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(左)河合神社内、復元された方丈。組み立て式土台

58で現在の京都市伏見区あたりに落ち着くが、それまで転々とする間、棲家として仕上げたのが一丈(約3メートル)四方の方丈。

移動に便利な組み立て式の小屋で土台の上に柱が建てられる土居桁の構造。

21年ごとに式年遷宮で社殿が造替されるため土居桁で造られている下鴨本殿をヒントにしたそうだ。

*****

長々となってしまったが、下鴨神社シリーズはこれでいったん終わり。

謎かけの多い案内板や立て札に導かれ、書いてきた。今の下鴨さんにも、長明さんの意識が脈々と続いているような気がする。実体を確かめた訳でもないがそう感じる。

これから、京都北部「古代の出雲のクニ」に目を向けてゆきたいと思う。

その中で、あらためて下鴨さんのことを取り上げる場合、連番で書いてゆきます。

※シリーズは、テーマ直下・カテゴリーの「下鴨神社」または「賀茂御祖神社」クリックでカテゴリーページで探していただけます。

ご報告。少しペースダウンします笑

ブログ開始日数117日、継続日数107日、になりました。

下鴨さん(シリーズ)もひと区切りついたところ。

ここらで、週に3~4回のペースに切り替えようと思います。

仕事しとるんかっ!?というご懸念、場合によってはお叱りを受けたりします。笑

質重視で行くとともに、妄想小説の続きも書きたいと思っています。

現在原稿100枚。目標200枚!

今後とも、よろしくお願いいたします。

下鴨神社(12)賀茂御祖神社・ 後ろの正面だぁれ(4)出雲と浦島太郎★ 日本古代史最大の謎

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浦島太郎(無料写真AC)

始めての方は、とりあえず、この記事から読んでいただいた方がよいかも知れない。

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浦島太郎のモデル、出雲のオオクニヌシ

昨年から出雲に行きたいが、かなわず、とはいうものの、少しずつ準備をしている。

参考にと見つけて購入したのが「山陰の名所旧跡」。

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山陰の名所旧跡。勝友彦さん著。大元出版

いわゆる「出雲の伝承」を交えた名所旧跡のガイドブック。

こういった伝承本が大好きだ。口碑(言い伝え)に貴重な情報が紛れ込んでいる可能性があるし、それを読み妄想することで頭に入れる。

長浜神社神戸川」の項。

紀元前3世紀末のこと、出雲王国の王・八千矛(大国主)にタケヒナドリが「海岸でこどもたちが騒いでいる」と知らせて来た。重臣ホヒに誘われて、八千矛は園の長浜に出向いた。浜では海童たちがワニ(サメの方言)を捕らえた。出雲では、ワニを聖なる動物を崇めていたから、八千矛はワニを放つように説得した。すると海童たちが八千矛を取り囲み、船に引きずり入れた。それっきり八千矛は行方不明になった。帰って来て黙っていた重臣は陰柔らしいと噂された

(八千矛は「やちほこ」。園の長浜は出雲市の長浜海岸。陰柔はスパイのこと)

おとぎ話どころか、実に生々しい話だ。

カメとワニなど、ディテイルで違うところはあるが、頭に浮かぶのが「浦島太郎」。

この話がインプットされた状態で、下鴨神社の「浦の廻廊」の立て札を読んだ。

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下鴨神社。大炊殿・アオイの庭。浦の廻廊の立札

かなり驚いたが、とはいうものの、どこまでが史実で物語なのか、正直、今でも分からない。

古事記の「クニゆずり神話」とも違いすぎる・・・ただ神話は神話だ。長浜海岸は国譲り神話の舞台・稲佐の浜の近くで繋がっている。

「詰めておかなければいけないこと」もたくさんあると思い、結果的にダラダラと書いていたと思う。

おかげで、御陰神社出雲井於神社を通じて、古代の山背北部には「出雲のクニ」があったこと、「ウラ」と「浦島太郎」の隠された意味を理解した。

御蔭様の正体

確かに、伝承のような行方不明では、御蔭様とされるに十分だ。

蔭は隠(おぬ)であり「おぬ」が転じて「鬼」になったという説もある。

感慨深いのは、おそらく拉致した側、物部系の子孫で最後の宗主・守屋も「もののけ」として祀られたこと。

鬼は「もの」とも読み、こちらも「鬼」になった。

おとぎ話と古代出雲

大阪・住吉大社の奥の天神さん、生根(いくね、いね)神社の御祭神は少彦名命

コンビで出雲のクニ造りを進めたと伝えられるオオクニヌシスクナヒコナ

オオクニヌシが浦島太郎、スクナヒコナ一寸法師

「大と小」の暗示とおとぎ話の主人公に仕立てあげられている共通点。

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Once Upon A Time In The West、日本古代史最大の謎

むかしむかし、西のクニ、古代出雲で一体何があったのだろう?

オオクニヌシのその後も気になるところ。玉手箱を開けてお爺さんになったことが暗示するもの。サメが亀に代わった意味。竜宮城や乙姫とは?

出雲大社奈良時代に創建され、おそれられていた理由。平城京を設計した人たちはコトの経緯・真相をどこまで知っていたのだろうか。平城京の「伊勢-出雲ライン」出雲方向の座標(測位の基準点)は「玉手門」

そしてその人たちが古事記日本書紀を作った(創った)。もちろん書かなかったこと、書けなかったことの方が多かっただろう。国書は「勝者の歴史書」だからだ。

その後の数々の謎の始まりという意味で、日本古代史、最大の謎だ。

エンニオ・モリコーネの名曲。Once Upon A Time In The West(Songs;Steffi Vertriest)

セルジオ・レオーネ監督映画作品。チャールズ・ブロンソンヘンリー・フォンダクラウディア・カルディナーレ主演。1968年

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古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

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日本の謎の古代史 考える時のポイント(3)「神社」と「前方後円墳」の時代

長い休みに入ったので妄想年表を作ってみた。

とはいっても、縄文~弥生~古墳~飛鳥と続く年代区分に逆らうつもりはない。

イワクラや神社がどの時代に造られるようになったのか、時代区分に合わせてみた。

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古代史の時代区分にイワクラや神社を重ねてみた

近年、弥生時代の開始時期が大幅にさかのぼっている点に注意。

あの有名な遮光器土偶も、紀元前300年あたりの亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)から出土、つまり、弥生時代土偶ということになるが、歴史的価値は何ら変わりはない。

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遮光器土偶松本清張さんは津軽弁と出雲地方の方言の類似をモチーフに「砂の器」をうみだした

新しい発見があるたびに教科書も柔軟に変わってゆくのは当然。バイオ生物学の世界は毎年変わるので受験生は大変だ。

古墳時代は河内期・物部氏の繁栄期

前回記事で「クニビキは出雲のイメージ、クニウミは物部のイメージ」と書いたが、「イワクラは出雲、神社は物部」。

鳥居や宮(本殿)、浮き橋(反り橋、太鼓橋)のある神社はモノノベ様式としてスタートした。

神社=クニ造りの拠点になるため、多くの場合、先に進出した出雲勢力のイワクラがあるところに、物部は神社を創建した。「出雲後物部(いずも・のち・もののべ)」の具体的なこん跡だ。

浮き橋は、クニウミ神話でイザナギイザナミがたっていた「天の浮橋」。

ご神域はクニウミで生まれた「シマ」。シマには天の浮橋からわたる、または、シマが生まれるのを拝む。

前者が宗像(むなかた)式、後者が厳島(いつくしま)式。

物部氏滅亡(丁未の乱)は歴史的にたいへん重要なイベント

古墳時代前方後円墳)が終わった時代と物部氏の滅亡はリンクしている。

また、飛鳥京の中も外も、飛鳥時代に創建された神社はない。かわって寺が多数造られている。

おそらく唯一の例外が諏訪大社上社もののけ(鬼、もの)になった物部守屋とその先祖を鎮める巨大な仕組み(結界)が必要だった。上社の創建は587年の可能性が高い。

崇仏派が勝利したからアタリマエで済ませていると「見えない歴史」もある。

飛鳥時代の謎」はモノノベ後の新しい神道を模索した推古女帝、斉明(皇極)女帝の視点で考えれば見えてくる。

古来、女帝(姫御子)は巫女であり、仏教に女帝の出番はない。

祭祀施設と墳墓を分けて考える

古代の祭祀施設と墳墓は明確に分けられている。考古学では一般的にそのように考えられていると思うが。

原点は「平原弥生古墳」の原田大六(だいろく)さんだ。

大六さんは「銅鐸・銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)」の青銅器セットは祭祀用、「鏡・剣(鉄)・玉」のセットは墳墓用、と線引きして考えるべきと提唱された。

理由は、青銅器セットと三つの神器が同時に出土した遺跡はゼロという単純な事実。

かえってそのシンプルさが、目からウロコだった。つまり、神社(祭祀)と古墳(墳墓)の関係も同じ・・・

そこから行き着いたのが、

ウキシマ式の神社はモノノベ様式の祭祀施設、前方後円墳はモノノベ様式の墳墓。

河内期・物部氏のものづくり拠点は八尾・東大阪・平野、祭祀施設(聖地)は上町半島北端(大阪城の地にあった生玉神社)、そしてクニの「サカイ」の堺~藤井寺~羽曳野に墳墓が造られた(百舌鳥古市古墳群

飛鳥(斑鳩)から見たサカイではなく、河内から見たときのサカイだ。堺は海上交通の要衝、藤井寺~羽曳野は陸上交通の要衝。飛鳥と難波(瀬戸内海)を繋ぐ意味での要衝だ。これが意味するところ。

物部氏ヤマト王権(飛鳥)に代わり得るほどに膨らんでいた。

「崇仏 vs 排仏」の図式はオモテの理由に過ぎないと思う。

弥生時代の古墳?

話は少しズレるが、大六さんが弥生時代の平原墳墓を「平原弥生古墳」と強調したのは、

平原墳墓が、後の古墳時代の先駆けであるという考え方から。

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平原遺跡の「平原弥生古墳」の碑。原田大六さんの銅像

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※物部さん考(8)の際、指摘を受け、関東では600年代(飛鳥時代)でも小型の前方後円墳が造られて続けていたことを確認した。飛鳥京から遠いこと、小型であることから、物部氏の系統が「まつろわぬ者」として続けていたと推理した。飛鳥時代天皇(主に女帝)は国体護持のため苦心したであろう。

※シリーズでお読みいただく場合、テーマ直下・カテゴリー「古代史」クリックでカテゴリーページ。連番で確認してください

飛鳥京跡苑池 新たな流水施設が見つかる【8月10日・現地説明会・参加】

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飛鳥京跡苑池(南側)イメージ。個人的に「シマ」が気になるが本記事は妄想無し!妄想は別記事で

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8月8日、橿原考古学研究所(奈良)が、飛鳥時代(7世紀)の築造で国内最古の宮廷庭園跡といわれる「飛鳥京跡苑池(えんち)」で新たに流水施設が見つかったと発表した。ニュースで流れたり一面になったりしたのでご存知の方もいるだろう。

現地説明会が10日ということで急きょ参加した。

天皇祭祀にかかわる流水施設は、19年前の酒船石(さかふねいし)遺跡の「亀形造形物」以来2回目で、史跡価値としては一級品。

修正・写真変更、他情報あれば11日中にアップしておきます。(11日深夜)

解説(コピペ)

流路の両側には約100平方メートルの石敷きが広がり、石敷きに下りるための階段も見つかった。現場では斎串(いぐし)や土馬(どば)、製塩土器などの祭祀遺物も出土。7世紀中頃の斉明朝に造られ、天武朝での大改修を経て、9世紀頃まで使われたらしい。

北池・流水施設、現地説明会

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37度の炎天下でもたくさんの参加者。(冷房のきいた休憩所にトイレが新設され、すごく助かった)

以下、説明会場に展示された8枚のパネル順。

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(1枚目)飛鳥京の北西、飛鳥川の近く。赤色が飛鳥京跡苑池。南池+北池+導水路が発掘されている。水は南から北に流れる(2枚目)今回、北池・赤色の調査区で新たな流水施設が発見された

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(3枚目)北池の北東区画で流水施設が発見された。上空写真(4枚目)拡大図(いただいたパンフレットの画像と差し替えました)

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(5枚目)上が湧水部で現在も水が湧いている。下は流水部で一辺1メートルの正方形。深さ50センチ。真ん中にくぼみ。樋桶からあふれた水が流れてゆく構造(6枚目)敷石。上が今回の北池のもの。南池よりサイズが大きい

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(7枚目)上・湧水部の北隣の階段状の遺構。下・西側と北西側の階段。作り方が少し違う(8枚目)階段状遺構が赤。敷石部分が黄色。黄色の下にさらに古い遺構が隠れている可能性が高いとのこと

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パノラマ写真

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湧水部、流水路、階段状遺構

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(左)出土した木樋に水やりをする所員さん。保護と公開のはざま。(右)階段状遺構

橿原考古学研究所(2019年8月10日)現地説明会資料より。裏面の解説

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飛鳥京跡苑池第13次調査・現地説明会資料、裏面の解説

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www.iza.ne.jp

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飛鳥の中心地

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南池(現在、埋め戻されていて見学できません)

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南池で発掘された石造物群、休憩所にあった南池の復元模型

www.zero-position.com

太陽のただ射す所にカゲができ、ヤタカラスのただ指す所にウラがいる 古代京都 「先」の出雲氏、「後」の賀茂氏

下鴨神社の「御蔭様、みかげさま、おかげさま」の謎について、下調べで、京都市考古資料館(京都市埋蔵文化財研究所)を訪問。

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京都市バス今出川大宮駅前/京都市上京区今出川大宮東入ル元伊佐町265番地の1(西陣織会館、清明神社近く)

www.kyoto-arc.or.jp

縄文~弥生時代の京都の遺跡分布。

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縄文時代弥生時代の古代京都

下鴨神社あたりのY字型の「河合」の南に、もうひとつ鴨川と桂川の合流点があり、その南が「巨椋池おぐらいけ)」

巨椋池万葉集にも登場し、上皇天皇・公家の熊野詣りが盛んになった平安時代より、京都と難波間の淀川舟路の起点として栄えて以降、名所図会(江戸期)でも紹介される観光名所であった。しかし昭和初期の大干拓で水田化した後、一部宅地化し、今では高速道・京滋バイパスの巨椋インターチェンジで知られるぐらい。

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(左)巨椋の入り江(拾遺都名所図会)(右)大正期の巨椋池 どちらもWIKIより

パネルでは、巨椋池を低地に、現在の京都市中心部(北)に向かうほど高地に色分けされている。

縄文から弥生時代にかけて、北部の高地から南部の巨椋池に向かって居住地が広がった様子がうかがえる。

弥生時代の京都北部は有数の「出雲のクニ」だった

出雲井於神社(下鴨神社境内)の案内板に書かれていた「先・出雲族」・葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)は、下鴨神社一帯を中心に、東山の北白川遺跡群、岩倉(弥生のパネル上、中在地)の「葛野郷」全域、つまり、

上京区より北側を勢力範囲にしていた

古代ヤマト(物部)勢力は南部・淀川からクニ造り

前方後円墳ヤマト王権の勢力エリアの目安と考えられ、古墳は「クニのサカイ」に造営される。

ヤタカラスの賀茂氏(後・出雲族)の協力を得たヤマト勢力は、

中京区より南側を勢力範囲にした

賀茂氏が協力した経緯は長くなるので別の機会に)

※地図:奈良盆地歴史地理データベース で作成

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前方後円墳の分布状況。緑マークが前方後円墳

西暦800年ごろ(飛鳥~奈良)の勢力図

やがてヤマト勢力が北部を飲み込んで行くが、相当な時間がかかったものと思う。

その後、京都は秦氏がからむ。物部氏丁未の乱(587)で滅んで以降、下のパネルのように変化する。

下鴨神社のあたり、面白い分布だ。

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丁未の乱(587)以降、秦氏は勢力拡大。京都全域を支配。

このシリーズ(8)で出雲の女神ラインを引いてみたが、旧井上社は合流点(河合)付近、河合社(河合神社)も旧三井邸付近に鎮座していたと推理する。

下鴨神社では、出雲の神々(先・出雲族の信仰)は河合神社・六社(むつのやしろ)にまとめられた感じ。もともとそれぞれの社が一帯にあったのではないだろうか。

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(左)河合神社・六社、(右)旧井上社は河合付近の黄ライン上。河合社も南にあったと推理

結果的に、先・出雲族出雲氏は、今の下鴨神社の外に追い出された格好で、この図式は、

「後」の賀茂氏=太陽・ヤタカラスに対し、「先」の出雲氏が御蔭様になった経緯を暗示しているのではないかと考えた。

太陽(ヤタカラス)のただ射すところには陰(カゲ)ができ、

太陽(ヤタカラス)のただ指すところには陰(ウラ)がいる。

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烏の縄手の立札。ヤタカラス=太陽=賀茂氏の暗示

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人里離れた御陰神社。案内板。「太陽のただ射す所」の暗示。はじめ太陽の射す所がなぜ陰(カゲ)なのかわからなかった。ヤタカラスが指す所なら陰(ウラ)、つまり、ここだ

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浦の廻廊の立て札。ウラ、カゲ、神さんの暗示

これとは別に気になるのが河合神社の「三井社」。さすがに頭がまわらないが、古いご神域の河合に、旧三井邸があったのは単なる偶然なのだろうか。

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左)河合神社境内図。南門の外に三井社。右)旧三井邸(要入場料)

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