神社と前方後円墳の関係を考えるのに、
誉田八幡宮と応神天皇陵古墳(別名;恵我藻伏崗陵、えがのもふしのおかのみささぎ)にお詣りしました。
ご覧の通り、鳥居-本殿は東向き、本殿脇の参道の北側に応神天皇陵があります。
江戸期の河内名所図会には、本殿は今と同じ東面、前方後円墳の「円部」の頂上に登る階段が描かれています。
大阪府羽曳野市誉田三丁目2-8(近鉄南大阪線・古市駅または道明寺駅)
御祭神:応神天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇
仲哀天皇がお父さん、神功皇后がお母さん、応神天皇が息子という関係です。(仁徳天皇は応神天皇の息子、二人の孫)
まず、二羽の鳥で「八」の字が描かれた(かわいい)扁額の鳥居をくぐると、右側に放生池があります。
朝早めにお参りした時、ちょうど神主さんが、朝のお勤めをしておられました。
二拝二拍手一拝
拝殿の説明板には「間口十一間、奥行き三間の細長い入母屋本瓦葺の木造建築、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼が片桐且元(かたぎりかつもと)に再建させたが、完成直前に大坂冬の陣・夏の陣が起こり、八割ほどで放置されていたのを、後に徳川家光(第三代将軍)が続行して完成したため、最後の仕上げに、徳川家の三つ葉葵の紋がつけられている」とありました。
本殿をあとにして、応神天皇陵に向かいます。
すごいアーチ形の放生橋(反橋、そりはし)が見えてきました。
先には行けませんが、石の橋の向こうに応神天皇陵に続く参道が見えます。
説明板より)長さ5.8m、幅2.5m、高さ4.8mで、3本の橋脚に橋げたをわたして、幅30センチ、高さ70センチの欄干(らんかん)が組まれています。両端には擬宝珠(ぎぼし、ネギの花の形に似た装飾)を付けた柱が立てられています・・・(この)橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、その後、何度かの修理が行われています。9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊を載せた神輿(みこし)が本殿からこの橋を渡って応神天皇陵へ渡御する神事が厳かに執り行われます(現在は脇の平橋を渡ります)
現在は、横の平橋を通るそうですが、昔は反橋に足場を組んで、神輿を担いで渡ったそうです(スゴイ!)
今では、誉田八幡宮は安産と厄除けの守護神として崇敬されていますが、安産の御神徳は、仲哀大王の后(きさき)の神功皇后のほか、後冷泉天皇(第70代)の皇后の出産にまつわる言い伝えがあります。
由緒書より要約)後冷泉天皇の永承六年(1051)に皇后が御懐妊されたとき、ある夜の夢に、木下に老翁(おきな)が立っていてその姿は鬼のごとくでした。「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げると夢はさめ、皇后はこれを天皇に話したところ「木に鬼は”えんじゅ”である」ということで、神功皇后の伝承を想い起こされた
前方後円墳の拝み方・考★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
前方後円墳は、ふつう、後円部(丸いところ)に墓域(石棺が納められるところ)、前方部(四角いところ)に埴輪などが置かれます。
誉田八幡宮でも墓域のある後円部を遥拝(ようはい)するようになっています。
このスタイルの基本は、巨大な仁徳陵にも共通していると考えています。
地図のラインは、昨年冬に住吉さんで出会った謎の?お爺さんにいただいた『摂州住吉宮地全図(1827)』で南北に正確に描かれた「奥の天神-石舞台-正印殿(跡)」をつないで、仁徳陵まで引いたものです。緯度・経度を計算して描きこみました。仁徳陵の墓域中心をピタリと指しているのにビックリしましたが、方違神社を通過している理由を考えています。反正陵と思いきや、仁徳陵を拝んでいる『方向違い』のように思えます。(グーグル地図には正印殿跡は書き込んでいません)(反正大王は仁徳大王の息子)