年末、住吉さんにお参りした時、たまたま出会ったお爺さんにいただいた江戸後期の「摂州住吉宮地全図(1827年)」。
境内と摂末社のガイド(観光案内図)と考えられるが、今の住吉さんとは少し違うところもあり、正月に調べていた。
前回記事
前回、地図・南側の「方違明神社(ほうちがいみょうじん社)」。
方違明神社は方違神社のことで、住吉さんの南北ライン(~仁徳天皇陵墓域)上に、乗ることがわかった。
方違神社(ほうちがい)神社(反正天皇陵の北側に鎮座)
ご由緒書・文字起こし(前半のみ)
方違神社の紀元は古く、崇神天皇の勅願により創建されたと伝えられています。このあたりは摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているため、三国山、三国の衢(やちまた)、三国丘(みくにがおか)と称されていました。三国の境界にあるため、方角の無い聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えませんでした(以下省略)
案内板には、和泉名所図会(1796年)の方違神社の様子が掲載されていたので、いただいた摂州住吉宮地全図(1827年)と比較してみたところ、建物の形から同じ神社であることがわかった。
和泉名所図絵ではなぜか方違神社のそばが大仙陵になっている。大仙陵と言えば仁徳天皇陵のことだが。
また描かれている神社と陵の位置関係が違う。上の写真のように境内からは後円部が見えるはずだが。
そして、楯井陵が反正天皇陵のことだ。
つまり、もともと仁徳天皇陵の西にあった神社が現在地に移転したように思える。移転は神社のサイトには書かれていない。
もし移転していたのなら、いただいた摂州住吉宮地全図に描かれた(南北ラインからズレる)位置関係はやはり正しいということになる。
このあたり要確認。
反正天皇陵(世界遺産・百舌鳥・古市古墳群。百舌鳥古墳群では7番目の大きさ)
摂州住吉宮地全図(1827年)の謎を追うはシリーズで続けます(次回未定。リサーチ次第)