ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

摂州住吉宮地全図の謎を追う(1)【反正天皇陵の北に鎮座する方違神社】住𠮷さんあたり(10)

年末、住吉さんにお参りした時、たまたま出会ったお爺さんにいただいた江戸後期の「摂州住吉宮地全図(1827年)」。

境内と摂末社のガイド(観光案内図)と考えられるが、今の住吉さんとは少し違うところもあり、正月に調べていた。

前回記事

www.zero-position.com

前回、地図・南側の「方違明神社(ほうちがいみょうじん社)」。

方違明神社は方違神社のことで、住吉さんの南北ライン(~仁徳天皇陵墓域)上に、乗ることがわかった。

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住吉さん・南北(女神ライン)と仁徳天皇陵

方違神社(ほうちがい)神社(反正天皇陵の北側に鎮座)

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反正天皇陵の北に鎮座する方違神社

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方違神社

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現在の本殿は真新しい(平成29年に社殿を造替)

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方違神社 案内板

ご由緒書・文字起こし(前半のみ)

方違神社の紀元は古く、崇神天皇の勅願により創建されたと伝えられています。このあたりは摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているため、三国山、三国の衢(やちまた)、三国丘(みくにがおか)と称されていました。三国の境界にあるため、方角の無い聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えませんでした(以下省略)

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方違神社境内から反正天皇陵・後円部

案内板には、和泉名所図会(1796年)の方違神社の様子が掲載されていたので、いただいた摂州住吉宮地全図(1827年)と比較してみたところ、建物の形から同じ神社であることがわかった。

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方違神社境内図、上:摂津住吉宮全図(1827)、下:和泉名所図会(1796)

ja.wikipedia.org

和泉名所図絵ではなぜか方違神社のそばが大仙陵になっている。大仙陵と言えば仁徳天皇陵のことだが。

また描かれている神社と陵の位置関係が違う。上の写真のように境内からは後円部が見えるはずだが。

そして、楯井陵が反正天皇陵のことだ。

つまり、もともと仁徳天皇陵の西にあった神社が現在地に移転したように思える。移転は神社のサイトには書かれていない。

もし移転していたのなら、いただいた摂州住吉宮地全図に描かれた(南北ラインからズレる)位置関係はやはり正しいということになる。

このあたり要確認。

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和泉名称図絵 方違神社神社

反正天皇陵(世界遺産・百舌鳥・古市古墳群百舌鳥古墳群では7番目の大きさ)

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反正天皇陵(田出井山古墳)

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反正天皇陵の陪塚、鈴山古墳と天王古墳

摂州住吉宮地全図(1827年)の謎を追うはシリーズで続けます(次回未定。リサーチ次第)

www.sakai-tcb.or.jp

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