千五百年にわたり #住吉大社 神主家であった #日本三家のひとつ #津守氏 の居館があったところに #アラハバキ 的な陽石(石棒)と陰石(胎内石)。住吉さんに残る子孫繁栄・五穀豊穣を祈る南北ラインと関係か。#仁徳天皇陵
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本文
住吉の南北を繋ぐライン
今でこそ、住吉大社は東西に第一本宮から第三本宮が並ぶ東西のラインで参拝しますが、
創建の古墳時代中期(西暦300年代)の地形を考えると、古代難波津の入り江「住吉の津(墨江の津)」を海上交通の権益とする一帯で、
南北ラインが主軸であったことが推測できます。
「地政学的」に考えて、それ以前の弥生時代から、摂津住吉の一帯はすでに海人族アド(安曇)の一大拠点であり、ゆえに南北ラインは彼らの信仰のこん跡であると推理しています。
そのこん跡が黄で示した南北ライン(第一本宮で赤の東西ラインと交差)
このラインは、2019年12月に大海神社を参拝中に不思議な御縁で出逢ったご老人からいただいた摂州住吉宮地全図(江戸期)で気付かされたことは、当ブログで紹介していました。
そして二つのラインの交差について、次のように解釈しています。
①南北ライン(黄色)は、「弥生時代」出雲のサイノカミ信仰を表わす(生根神社の信仰様式、塞の神。種貸≒アラハバキ的。天神は「テンマサマ(津軽)」などとして古くは男根信仰。道真公信仰より以前の話)
巫女神として、イズモの宗像三女神を配神(種貸社、楠珺社、浅澤社)。
②北九州勢力の東遷で始まった「古墳時代」住吉信仰が、①のラインにクロス
三女神に三男神(底筒男命、中筒男命、表筒男命。海童信仰)を対応させた。
まさに 出雲後物部 のスタイル。
実はこの流れ、葛城・三輪山(出雲血統)の姫巫女(ヒミコ)が、三代にわたって物部血統の大王に嫁いだヤマト創世記の物語と繋がっています(出雲口伝、出雲伝承)
これはいずれまた別の機会に。
南北ラインと繋がる仁徳天皇陵
何度か、当ブログで紹介しましたが、住吉の南北ラインは、仁徳天皇陵の後円部の墓域中心部を、精確に指しています。
紹介してきたように、住吉さんの南北ラインは、明らかに古い弥生以来のサイノカミ・アラハバキ的なこん跡であり、
子孫繁栄と五穀豊穣を絡めた「出雲弥生的」と云うべき信仰のカタチです。
中世から明治期まで住吉大社の歴代神主を勤めた日本三家のひとつ、津守氏の居館跡にこのような形式が残された経緯がわかりませんが、
もし、これがはるか昔から、ここ(神主居館)にあったのなら、それは古神道の秘儀に関連するもので、ゆえに津守氏が、元来どのような出自であったのかを推測する手がかりになります。
そして、子孫繁栄と五穀豊穣のラインが仁徳天皇陵の墓域を指すということは、亡くなられた大王の神威(仁と徳)の継続、あるいは魂の再生を、強く・深く祈ったこん跡と解釈することができるのではないでしょうか(了)