ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

摂州住吉宮地全図の謎を追う(2)【住吉大社と仁徳天皇陵を結ぶ南北ラインの謎】住𠮷さんあたり(11)

はじめに

住吉大社の参拝で偶然に出会ったお爺さんにいただいた #摂州住吉宮地全図。江戸後期の #住吉大社の観光ガイド地図。南北に一直線に通るラインを意識して描かれていることに気が付きました。そしてそのラインを南の方にたどって行くと、堺の #方違神社、その先には #仁徳天皇陵 の中心墓域

目次

本文

南北の直線ライン上に奥の天神(生根神社)-石舞台-神主館(行宮跡)が並ぶ

昨年の暮れ、住吉さんにお参り中に出会ったお爺さんにいただいた「摂州住吉宮地全図(1827年)」

江戸後期の住吉大社の観光ガイド地図。

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奥の天神(生根神社)-石舞台-神主館(行宮跡)のライン

現在の本殿(三宮)の東西の赤色ラインに交差して、南北の黄色ライン(石舞台まで)を考えていたおかげで、住吉宮地全図が神主館も含めて、南北ラインを意識して精密に描かれていることを理解しました。

なお、住吉大社境内社「種貸社」もライン上に鎮座する。元社は生根神社境内の「種貸神社」だろう。今のところ、種貸神社が大きな南北ラインの本来の起点と考えています。

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江戸後期、地図が作成された頃、住吉大社の南北ラインは絵師が描くほどに、普通に知られていたことでしょう。だから生根神社(種貸社の元社がある所)が「奥」の天神さんと呼ばれていました。

古くからの信仰では(例えば山頂など)遥拝するところから一番遠いところが「奥津」「奥宮」と云われます。

なお神主館は、正印殿ともいい、住吉大社の歴代神主、津守(つもり)氏の居館があった所です。

南北朝時代南朝の宮のひとつ、明治天皇行幸した由来もあり「行宮(あんぐう)跡」として宮内庁(国)の史跡として保存されています。

住吉大社仁徳天皇陵の謎の関係

摂州住吉宮地全図を見て、住吉さんの南側に複数の末社があったことを新しく知り、試しに南北ラインを南の方に引いて行くと、

ラインは仁徳天皇陵の墓域中心をピタリと指す

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後円部の石室が墓域中心(近つ飛鳥博物館 巨大模型)

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さらにラインは方違神社(反正天皇陵北側)も通っていました。

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南北ライン。左は住吉さんあたり(9)、右は(10)で描いたもので経度と緯度を確認済

新たな謎

このラインは単なる偶然なのか、それともラインにもとづいて仁徳天皇陵(の場所)が決められたのか。

創建・築造年代から考えて、後者であるとは思うが、まだまだ情報を集めて「固めて」行かなければならない。

例えば、

「摂州住吉宮地全図」では方違神社は南北(黄色)ライン上には描かれていない。ズレている(冒頭の図再掲)

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奥の天神(生根神社)-石舞台-神主館(行宮跡)のライン

また「和泉名所図会」では、方違神社は反正天皇陵(楯井陵)ではなく仁徳天皇陵(大仙陵)の、しかも西側に描かれている。

当時も今も、場所が変わっていなければ、神社は図の赤丸のところに描かれるはず。

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場所が変わっていなければ、赤の所に方違神社があるはずだが・・・

むしろ、仁徳天皇陵の西側にあれば、それこそ「方違、ほうちがい」で納得できるのですがしかし一筋縄ではいきません。 (´▽`;)

週末に、仁徳天皇陵の西側一帯、かなり怪しいところ(大阪女子大学・大仙キャンパス跡の空地≒陵西遺跡があった所)を歩き回りましたが、身体中に種をつけて帰った(笑)以外の成果はなく、もう少し調べることにしています(空き地はグーグル地図で確認できます)

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そもそも名所図会の類は、それが図会(観光ガイド図)の価値ですから、物見遊山の客が道に迷わないように精密に描かれているはずなんですが。

たとえば、摂津名所図会・浮瀬(うかむせ)には、我が家(引越前)付近の小道でさえも、正確に描かれているくらいです。

(浮瀬は江戸時代の有名料亭。芭蕉翁が最晩年の句をいくつか詠んだところ)

*****

摂州住吉宮地全図(南側)では、方違明神社(ほうちがい・みょうじんしゃ、方違神社)の西に「三村明神社」が見えます。

三村明神社は、現在の開口神社堺市堺区甲斐町東2-1-29)のことでした。

方角は住吉宮地全図の通り。実際にもほぼ一致。ただ約1キロ以上離れており距離が違います。

つまり、雲(クラウド)が描かれた部分は「距離をデフォルメしてますよ」の意なんでしょうね。

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摂州住吉宮地全図(文政十年 1827年)住吉さん南側

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方違神社(方違明神社)、開口神社(三村明神社)

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住吉大社第一本宮・仁徳天皇陵

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