古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
南北の女神ライン(石舞台~生根神社)。東西の男神ライン(西から太鼓橋・第三・第二・第一本宮。楠珺社)
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南北、古代上町半島(現在の上町台地)のタテ軸、女神ライン。これはムナカタ(宗像)系の様式。
東西、古代墨の江(港)に対するヨコ軸、男神ライン。現在の住吉大社の姿。こちらはモノノベ(物部)の様式。
住吉さんでは出雲(宗像)と物部の二つの古代が交差
男神の住吉さんが創建されたのは西暦200年ごろ。墨の江が古代航路の要衝として発展し始めた時期。
女神ラインは、それ以前、ここにイワクラを置いた出雲文化があった名残で紀元前の話。
そうそう!宗像と出雲の解説が少し必要ですね。
古代、宗像と出雲は親戚関係
古事記・神代の記述(神話とされる時代の話)
「大国主(オオクニヌシ)が胸形奥津宮の多紀理比売(タキリヒメ)を娶る」という一節がある。(古事記・上巻)
奥津・タキリヒメは宗像三女神の奥津宮・タゴリヒメのこと。
出雲と宗像は親戚関係。古代王家では、このような婚姻例はほかにもたくさんあったと考えられる。もちろん本家は出雲。
古代出雲は「龍」と「蛇」を眷属神とする宗教文化で、よく知られた六角形の亀甲紋、実は「龍蛇のウロコ」という説もある。龍蛇の方が格好良い。
眷属神とはお稲荷さんの狐と同じで、島根県松江市・出雲郷(あだかえ)の阿太加夜(あだかや)神社の藁で造られた龍蛇は有名だ。
なお、ここの御祭神、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命(あだかやぬし・たきぎひめのみこと)は、中津宮・タキツヒメ「おたきさま」だ。おたきさまも出雲に嫁いでいる。
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現在の上町台地に、四天王寺さんのほか、あちらこちらに「龍の伝説、信仰」が残っているのは、古代上町半島が、はるか昔に出雲文化圏であったことの記憶だ。
聖徳太子は、そのあたりの事情をよくわかって四天王寺を建立したと思う。寺の核心の金堂そばに「龍の井戸」があるのはそういう理由によると考えている。
日本の仏教でも八大龍王の形で、龍神信仰が浸透した原点だろう。
住吉さんの南北ラインの先にあるもの。仁徳天皇御陵
テーマ(表題)に「2つの勢力・文化が交わる」と書いたが、
出雲文化に物部(祭祀)文化が乗っかった、と言う方が正確
同様の例は、このブログで紹介した大きな神社で挙げると、今回取り上げた住吉大社のほかに、
大神神社(奈良県)。「大物主」の名。御神体・三輪山への登拝口は狭井(さい)神社で、周辺を出雲の神々が固めている。狭井は塞と同義で「境界」を意味すると考えている。
諏訪大社(長野県)。大注連縄(おおしめなわ)のある春宮・秋宮が出雲。前宮・本宮は物部。
熱田神宮(愛知県)も可能性が高い。(最奥の一之御前神社はおそらく出雲)
鹿島神宮は(現在の関東平野からみて手前に)香取神宮(物部)ができたおかげか、出雲系の古社の雰囲気がよく残っていた(御手洗池、鎮石)
これらの神社に残された「こん跡」を「点」、それらを「線」で繋げて行くと、
列島の国造り(国土開発)では、出雲が先行し、物部が追う姿が自然に浮かび上がってくる
物部氏のスタートは紀元前二百五十年ごろの九州北部。
私がヤマタイコク(論争)に興味がない(なくなった)理由でもある。外国(中国)の文書、ゆえに聞き間違いの多い、しかも限られた情報で、多くのことを解釈しようとすること自体、無理がある。(聞き間違いの例、ヒミコ→ヒメミコ)
「ヒミコ」という蔑字(べつじ)で、シャーマン(巫女)的な面だけでしかイメージされないのは残念なことだ。
ヒメミコ(姫御子)はそのような「偏狭な」存在ではない。「やまとなでしこ」にも通じるあまねく照らす母性と清らかさをともなっている。
「東征」というよりも「東遷」
神社はそれぞれの地域の「聖地」にあり、聖地にはその時代その時代の記憶が幾重にも積み重ねられてゆく。
日本に限ったことではない。イスラム・ユダヤ・キリストの各文化が重なり合うエルサレムがよい例だ。
積み重なったベールを一枚一枚取り除いてゆくと、突然、意外な古代が姿をあらわすことがある。
古神社・古寺巡りでゾクッとするのはそういう時。
住吉さんでも、そんな体験をしたと思っている。