本記事(信濃と大阪・上町台地シリーズ)は、大阪上町台地住人の私が古代大阪のスコープから古代信濃を覗くように考察しました。古代妄想レベル★★としてご覧ください。
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
諏訪湖は中央構造線のほぼ真上、構造線が落ち込んでくぼんでところに湖ができました。地図の白い矢印、上川から水が流れ込み、天竜川に流れ出します。
水の流れから「上社」と「下社」と名付けられたという説もあります。御神渡りは諏訪湖の南東から北に2本、南西から東に1本の合計3本の「道」でせり上がることが多いそうです。
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真逆の季節ネタですが、諏訪大社といえば「御神渡り(おみわたり)」
温暖化が原因で全面結氷の日数が減り、起こらない年が増えているといいます。
地元の方が書かれたと思われるこの紹介記事中、気になる一文。
御神渡りは諏訪大社上社の「男神」が下社の「女神」のもとへと渡る恋の道、という言い伝えがあり・・・
厳冬期の七夕 のようなロマンティックな話ですが、
おやっ?
先日、大阪・住吉大社の記事(出雲・女神ラインと物部・男神ライン)
住吉さんについてまとめた中で、私が神社めぐりをするときの「出雲後物部(いずも・のち・もののべ)」考察ルールを紹介しました。
住吉さんでは、古い「出雲=女神ライン(南北)」に乗っかるように、それよりも後に「物部=男神ライン(東西)」がクロスしています。
その中で、諏訪大社は、下社が「(元)出雲」上社が「物部」と書きました。
根拠は単純で、下社には神楽殿の大注連縄(おおしめなわ)があったのに、上社にはなかったから。
遠く離れていますが「住吉さんルール」で、下社を「女神=出雲」、上社を「男神=物部」とすると、
御神渡り「恋の道」の話は「出雲後物部」のこん跡と考えることもできないでしょうか。
さらに「モノノベ式の浮島様式に変えられた」であろう点も、下社を(元)出雲と考えた理由。
観光用に新造されたものは別にして、正鳥居の前に太鼓橋(そり橋)を置いて様式化するのは、その典型的なやり方かと。
本来、古いイズモ式はイワクラ祭祀(辺津-中津-沖津・奥津)であり、人工的な反り橋や浮島様式による厳密な表現はしません。
モノノベ式の反り橋は「天の浮橋、神橋」、その渡った先が「聖域、神島」という考え方。
春宮・秋宮はもとイワクラ祭祀でしたが、後にモノノベ式に変えられた可能性を考えています。
ゆえに神楽殿の「大注連縄」を以て、上社とは発祥が違うんだよ、ということを表現(主張)している気がします。
左上:下社秋宮(鳥居前に太鼓橋)、右上:下社春宮(鳥居の向こうに太鼓橋)、左下:上社元宮(太鼓橋なし)、右下:上社前宮(太鼓橋なし)
春宮には神域最古とされる木造の太鼓橋が、正面鳥居の外、約二百メートルのところに孤立した状態で現存しています。
ガイドさんに聞くと「昔の神域がそこまであった」とご説明いただいたが、
そもそも、なぜ、その場所に、そのような最古の建築物が残されているのかという(少し意地悪だったかな?)質問には「確定した答えがないのでわからない」と答えていらっしゃった。
諏訪大社下社・春宮の太鼓橋。昔はここから先は神域ですべての参拝者はここで下乗下馬しました。
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