信州(信濃の国)に惹かれます。
中学生の時、自分らの学年から修学旅行の行き先が信州に変わりそれ以来。
何度も行きたい旅先であり続け、古代に興味を持つようになって、また格別に惹かれるようになりました。
私が住む大阪・上町台地と信州には、古来からの縁があることを知るようになったからです。
今わかっていることは三つ+真田幸村公。調べれば増えることがあるかも知れません。
生島足島神社と生國魂神社
物部氏の十種神宝「生玉」「足玉」の謎を求めて 生國魂神社(大阪市天王寺区)
生國魂神社の創建当時の姿とは? 生島足島神社(長野県上田市)
創建時、生國魂さんは石山大坂、つまり、今の大阪城の地にありました。後に蓮如上人の「石山本願寺」、秀吉公の「大坂城」へと変遷しますが、大坂城築城の時に現在地(夕陽丘)に移転。
生島足島神社の境内図を見て「大阪城にみえる」と書いたのは「浮島(うきしま)」に「堀の内の大阪城」を連想したからです。
創建時の生國魂さんは、生島足島神社のような浮島様式(=モノノベ様式)であったのでなかったでしょうか。
江戸時代(元禄年間)の古地図。右上円形が古代の生國魂神社、想像図?(高津神社拝殿・展示古地図を部分拡大)14の楼閣に囲まれた竜宮城のように描かれているのでしょうか。
善光寺さんと四天王寺さん
いずれも物部守屋の怨霊を鎮めることが目的と考えられます。
善光寺と四天王寺の創建時からの交流は間違いなく物部さんがらみで、それが野沢菜と天王寺蕪の話にも繋がるのでしょう。
野沢菜と天王寺蕪
上町半島は水が豊富で水はけも良い。龍神様のおかげか。蕪がよく育ち、一帯の名物でした。
江戸期:名物や蕪の中の天王寺(与謝蕪村)
蕪村は毛馬(けま、大阪市都島区)の生まれ。淀川河口の毛馬は胡瓜(きゅうり)で有名。野菜(漬物)が好物でした。
江戸期:思いでる鱧の骨切りすりながし吹田くわいに天王寺蕪(大田燭山人、大田南畝(なんぽ))
Wikiコピペ)大坂銅座に赴任中に中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で狂歌を再開、したそう。魯山人のような食通ぶり。
明治期:この頃は蕪曳くらん天王寺(正岡子規)
子規はこの時の奈良行きで、あの有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を創作。柿も蕪も旬が10~11月。
真田幸村公・出陣の地が三光神社。殉難の地は安居神社
信濃と上町台地の因縁。歴史の偶然とはこういうものなのでしょうか。
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