まとめ
四天王寺 には『七』の話がいくつかあります。#聖徳太子 の #七星剣 #七不思議 など。#四天王寺七宮 は寺を守るため創建時からあったと伝えられます。当時の #古代上町半島 の地形を考えれば、七宮が配置された理由、そして日本の神様の役割が見えてきます #ハザードマップ
本文
四天王寺には『七』という数字にまつわる話がいくつかあります。
例えば、聖徳太子の七星剣(七星文=北斗七星の文様のある鉄剣)、四天王寺の七不思議(伝承、数パターン)、そして四天王寺七宮。
四天王寺七宮(してんのうじしちみや)
大阪市HPより)四天王寺七宮は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。 大江神社、上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社、堀越神社の7つで、これらの神社を産土神(うぶすながみ)とする7つの集落が東成郡天王寺村となった
七宮のうち、上之宮(うえのみや)・小儀(おぎ、四天王寺東門外、現在は碑がある)・土塔(どとう、四天王寺南門外、現在の超願寺)の三社は、明治期に大江神社(天王寺区夕陽丘町5-40)に合祀されました。
※土塔神社があった超願寺:聖徳太子が蘇我馬子の末子・慧観を住まわせ、太子からいただいた経論や仏舎利を納める三重塔を建立し、火災から守るため塔の周囲を泥で塗り込めたところから「土塔山」の山名が残っている、との言い伝えがあります。人形浄瑠璃・竹本義太夫の墓所。
上之宮神社は大己貴命・少彦名命とともに第29代欽明大王が御祭神で、息子(第30代敏達大王)が御祭神の五条宮(ごじょうぐう)の北約六百メートルのところに鎮座していました。
熊野街道の第四王子・上之宮王子でもありました。(同・上之宮町4-40 上之宮台ハイツ)
四天王寺七宮の意味・考★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
一時(今でも?)、七宮は四天王寺を守護する北斗七星をあらわすといった話もありましたが、地図でご覧いただいてわかる通り、それはありません
聖徳太子の七星剣や四天王寺伽藍が南北に並んでいるところから、そういう話が出て来たのだと思いますが、四天王寺伽藍は東に三度傾いていて、それは、北ではなく、西を基準に造営されたからだということは先日、紹介しました。
では、どんな目的で七宮が置かれたのでしょうか?
ひとつの考え方として、標高地図をご覧ください。
ざっくりとですが、四天王寺の創建当時(593年)は、今よりも水際線(水域と陸域の境界線)が高く、現在5メートル標高以下の青いエリアは、ほぼ水域と考えることができます。
つまり、四天王寺七宮は、四天王寺の東・南・西のハザードマップとして置かれたのではないかと考えています
特に東~南(小儀、久保、河堀稲生、土塔、堀越)あたりは、昭和の初めごろまで大雨のあとに洪水になった地域で、10数キロ南東の古代大和川の本流があふれると、結果的に河内平野を北西に走る支流に沿って水があふれ(=川がこぼれ=河堀、こぼれ)治水に大変に苦労してきました。
そもそも、四天王寺は、河内平野の洪水が寸前で止まる標高の高い所に建立されたのです
延暦七年(788年)、当時の摂津大夫(今の大阪府知事のような役職)和気清麻呂(わけのきよまろ)が、荒墓(あらはか、茶臼山-四天王寺)の南に運河を掘って、茶臼山(堀越神社あたり、川底池)から、海に水を流す工事をして失敗した歴史がありますが、河堀稲生-土塔-堀越を結ぶラインの南側 には、その古代の工事跡が谷状に残っています(四天王寺七宮・標高地図の東西の青いエリア)