四天王寺の伽藍が、真北ではなく、西に約3度傾いている、という前回記事。初めての方はそちらからご覧ください。
四天王寺(伽藍)は夕陽を拝む鳥居を基準に設計されていた★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
もったいぶらずに先に答えを書きましょう(いつもの古代妄想ではありません。笑)
伽藍という文字通り、動かぬ証拠がありますので、結論は『四天王寺(伽藍)は夕陽を拝む鳥居を基準に設計されていた』です。
ご存知の方もいると思いますが、四天王寺(伽藍)の『核心』は金堂前の転法輪石(てんぽうりんせき)です。
なぜ核心かと言いますと、転法輪=お釈迦様の教え、であり、その象徴物が転法輪石だからです。
転法輪石を(座標の)原点に、ヨコ軸の方向に鳥居を置き、毎年春分と秋分の日に鳥居のど真ん中に太陽が落ちるように配置されています。
残念ながら今年は中止となりましたが、毎年、春分の日と秋分の日には、西大門から鳥居に沈む夕陽を拝む、日想観(にっそうかん、じっそうかん)の大規模な法要が行われます。
釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心。(四天王寺は)お釈迦様の教え(転法輪)のあるところ。(この鳥居のある場所は、はるか西方にあると云われる)極楽浄土の東の門に当たる
さて、この配置からどういった史実を考えるのか?
ここまで、四天王寺さんに行けば、誰でも確認できる事実をレポートしました。
さて、ここからどういう史実を考察するか、ここからが記事の目的です。
私には子供の頃から見慣れた当たり前の風景でも、少し視点が変われば、また新たなものが見えてくるという好例です。
西に約3度傾いた中心伽藍は、
四天王寺さん創建の時から、ここには鳥居があり、太陽(沈む夕陽)を崇敬する信仰があった
ことの確実な証拠だと思います。もっとわかりやすく言うと、
始めから仏教と太陽信仰(アマテラス大神)が融合された聖地であった
ということです。
では、なぜ、そうだったのか?
誰が鳥居を置いたのか?(あわせて、当時、仏教らしからぬ龍の井戸を中心伽藍に置いたのは聖徳太子なのか?)
※中心伽藍の拡大画像に龍の井戸の位置が表示されています
それに、そもそも『転法輪』は、ここではインド由来の教えそのものではない(ここで変わっている)ような気がする、などなど
そういったナゾや疑問が次々に生まれてきます。
はじめ、森の宮に造営された四天王寺が、あらためて現在地に再建された経緯とも関係がありそうです。
これらは飛鳥という史実が大変見えにくい時代の謎を解くための一歩・・・古代上町半島と飛鳥京の深い関係・・・私にはそれなりの力仕事になりますので、続編は時々書いてゆくことにします。
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そうそう!熊野街道。
実は四天王寺伽藍が傾いているのに気がついたのは熊野街道を調べている最中でした。
次回はそのことと、あらためて『小郡』について再考察したいと思います(前回記事は訂正)