生玉さんはたいへん古い神社(おそらく紀元前後)で、創建時は現在の大阪城辺りにあった。
グーグル地図で「生國魂神社 御旅所跡」で検索するとその位置がわかる。
物部さん考(2)のクニウミ地図を巻末に再掲しておくので、重ねてイメージいただきたい。 (ざっくりとした地図なので、御旅所跡は大阪城、現生玉さんは四天王寺近くの海沿いと見ていただければよい)
紀元前後の創建当時(御旅所跡)、東の古河内湾、そして北に向かって伸びる上町半島の先端に向かって拝んでいたはずだ。
中世、秀吉によって現在地の天王寺区に移設された。この時にご神体は西向きに配置され、現在に至っている。
この神社がなぜそこに創建され(モノ)、何のために、何を拝んでいたのか(コト)、もうお分かりだろう。
日々新たに生まれゆくクニの様子、クニウミである
秀吉の時代、大阪は西に向かって発展していた。
(写真は2013年秋。閉鎖直前の赤川鉄橋から淀川のワンドを撮影したもの。朝日の方向。鉄橋は既に立入禁止でこの角度から現在撮影不可)
古大阪湾では、活発な土砂の堆積で、浅瀬だった海に砂州が生まれ、広がり、繋がり、やがて大小の島が増えてゆく現象が起きていた。 数え切れないほどの砂州や島が海面から顔を出している景色。
八十島(やそしま)
始まりの砂州に水鳥が飛来し、タネと養分を運んでくれる
やがて葦などの水ぎわの植物が生え
「足」の根は湿地を(踏み)固め
茅(かや)などのススキ類の後
緑豊かな土地に変わってゆく
海は遠くになり、人が入り、田畑となり、実りを届けてくれる
弥生期の発展の姿、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)である
その景色は「海退」が進んだ当時の列島全域で見られたはずだ。
それを見守った人々の喜びは、どれほどだっただろうか。
前に「司馬遼太郎が考えたこと」に触れたが、13巻に「大阪の原形」というエッセイがある。
長編であるが、その中で、八十島祭(神事)について触れておられる。
司馬さんは住吉大社と書いているが、手元にある古い生国魂神社社務所発行の略誌に、生島巫(いくしまのかんなぎ)によって執り行われていたことが書かれている。
式次第はWikiに譲るが、新天皇即位の際に行われる国家祭祀で、天皇の着衣が納められた箱を海に向け開き「揺り動かした」そうだ。
衣のすみずみまでクニウミの精気を取り込む意味があった。
物部氏らしく布留(ふる)のがポイントだ
始まりのころは「鈴、鈴なり」をシャンシャンと鳴らしていたと思う(物部氏のシンボルは鈴なり)
鎌倉時代までに行われなくなってしまった古式だ。
さて、生玉神社の御祭神。
【主神】
生島大神(いくしまのおおかみ)
足島大神(たるしまのおおかみ)
主神の名は、どちらも物部氏の十種神宝(とくさのかむだから、前回)に見られる。
この二神、記紀の編纂を経て、日本神話のイザナギとイザナミに名を変えられた。
つまり、
男女一組、古代の「忘れられた神々」だ。
(絵はWikiから)
天地開びゃく神話(記紀)は、イザナギとイザナミが天の橋に立ち、矛(ほこ)で混沌をかき混ぜて固め、おおやしま (大八島、日本の国土)を作った、とする。
明らかに、記紀よりも、生島大神と足島大神の方が古く、つまり、イザナギとイザナミは、生玉と足玉をモデルにしたと考えるのが自然だ。
さて、長野県の下之郷に生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)がある。
どうも信州の方が古い(紀元前)らしく、さらに謎が深まった。
なぜなら内陸部だからだ。古代の謎は奥が深い。
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