はじめに
諏訪大社は上社・下社の四社が知られていますが、山梨県北杜市の大武川集落の中社はあまり知られていません。由緒には弥生から古墳時代への移行期の事績が伝えられ、当社が諏訪大社の元宮だったのではないかという気持ちを抱かせます
目次
本文
(大武川)諏訪神社中社
諏訪大社は上社二社(前宮・本宮)、下社二社(春宮・秋宮)の四社(いずれも長野県)とされていますが、
「甲斐国志」に「下ノ諏方武居祝(たけいほおり)の旧記に、諏方(すわ)明神上ノ社下ノ社の外に本祠を加えて三箇所の諏方と称し、中ノ社と記せり」という記述があり、このうち、中ノ社がここ、大武川の諏訪神社中社(山梨県北杜市)とされています。
(35.88443642627243, 138.24687093114625)/山梨県北杜市白州町大武川98/神社前のフェンス沿いの道(写真②)に通行の妨げにならないところを探して駐車
道路沿いから見えるフェンス、シカやイノシシ除けで、入口鳥居のフェンスを開けて境内に入ります。
御祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)
(※諏訪大社(下社・上社)の御祭神は建御名方(たけみなかた)神と八坂刀売神(やさかのとめ)の二柱)
往古、建御名方命(たけみなかたのみこと)、出雲國よりこの地に来たりて武甕槌命(たけみかずちのみこと)と平和の誓いをなされたと伝えられる。諏訪武井祝の日記に「諏方明神上ノ社下ノ社外ニ本祠ヲ加ヘテ三箇所ノ諏方ト称シ中ノ社ト記セリ」/境内末社:道祖神社外(ほか)4社
参考(山梨県神社庁HP)(甲斐国志より)上古、建御名方命、出雲国より此の地に至り、武甕槌命と平和の誓をなせし地と伝へられ、崇神天皇*1の御宇(=時代)、津沼川別命、東征の功に依り 本州西辺の地 に封ぜられ、其の御孫、大臣命、諏訪国造に任ぜられ廟を此の地に建てられし地なり。故に重きをおきて大武川と呼ぶに至りしと云ふ。成務天皇(第13代、古墳時代前期)の御宇、日本第一大軍神の神位を授けられ、徳川家康より御朱印神領一石二斗五升を寄進?せらる。
山梨県神社庁HPでは、諏訪は崇神天皇の時代に、本州西辺(本来は東辺のはずだが…例えば東征の西辺、つまり東征側視点での防衛の最前線が諏訪という意味かも知れない。)の地とされ、諏訪国造(くにのみやつこ)に任じられた大臣命*2(おおおみのみこと)が、この地に廟(社殿)を建てたとあります。
時代的に、当社(地)が諏訪大社の元宮であったと読めなくもない記述 ですね。
(大武川)諏訪神社中社 境内
境内は(大武川)諏訪神社中社の社叢として、県の天然記念物に指定されています。
案内の通り、山の斜面の境内のあちこちに巨木。地面には白い石灰岩が転がっていました。
境内に入ると、大きな樹の根元に石碑がひとつ。達筆すぎて読めません。笑
【1123追記】ツイッターで、may55さんから「天満宮」と読むと教えていただきました。ありがとうございますm( )m
境内を進むと拝殿。その斜面奥に御本殿。
当社の拝殿は、御柱祭にあわせて、寅年(今年)と申年ごとに建て替えられる諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市中洲宮山)の御宝殿(ごほうでん)の旧建物をもらい受けて移築したもの。
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参考に。今年建て替えられたばかりの諏訪大社上社本宮の御宝殿。
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境内から東の方の斜面に、巨大な石灰岩の岩塊である大武川岩が釜無川を望む断崖にあるそうです(今回は見学せず)
山梨と長野の県境を流れる釜無川
諏訪神社中社に行く(車)には、長野県富士見市から釜無川に架かる県境の橋を越え、山梨県北杜市白州町大武川に入ります。
大武川集落(山梨県)の人たちは、どこに行くにしても、釜無川の橋を渡らないといけない、つまり県境を越えて、いったん長野県側に渡らなければならないということになりますね。