春の堤防をウォーキング&歴史散策。大和と河内を繋ぐ古代の水路・陸路のハブ #柏原市安堂。かつて #大和川 はここで北に向かい扇状地を形成しながら現在の大阪城の東一帯の内水湖に流れ込んでいました。飛鳥~奈良時代には最果ての #シルクロード #龍田道
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春うらら。新大和川堤防を歩く。
三寒四温で寒暖の差が激しいこのごろですが、先週末、暖かくなってきたので、新大和川の堤防をてくてく。
江戸期(元禄年間、1700年ごろ)の古地図で説明しますと、赤いラインのコースを10数キロ歩いてきました。
かつて大和国から河内平野に流れ出た(旧)大和川は、安堂村(現在の柏原市安堂)付近で北~北東に流れを変え、河内平野に扇状地を形成しながら、
現在の大阪城の東側一帯にかつて存在していた内水湖(深野池ふこのいけ、新開池しんがいいけ)に流れ込んでいました。
わずか8ケ月で完成した新大和川の流れ
新大和川・付け替え以前の歴史に登場する大和川は出口のわずかな大河であるため、河内一帯はちょっとした雨で溢水する広大な氾濫エリアでしたが、
元禄年間(1704年)、庄屋・中甚兵衛を代表とする地域有力者が共同で、旧流域の新田開発(石高アップ)とセットで幕府に陳情し、わずか8ケ月の築堤工事で、川の流れを堺(大阪湾)までの西方向に付け替えました。
(築堤だけの水路造りだったため、新大和川は周辺地よりも標高が高い所がある天井川で、現在でも氾濫災害の危険をはらんでいます)
(川の付け替えで大量の土砂が流れ込み浅くなったおかげで、中世の国際港湾都市であった堺の機能は一気に失われました)
広大な旧流域~旧内水湖跡に灌漑された新田は、鴻池家の財を生み出した鴻池新田(←新開池)など、稲作や綿花栽培による莫大な経済効果を生み、当時の河内エリアの発展に寄与しました。
大和と河内を繋ぐハブ。安堂あたり。極東のシルクロード
3時間ほど歩いて、安堂に着きました。
大和二上山と葛城の大鳥(開物の造語)。
大和国への入り口の目印、二羽の大鳥を見晴るかす景色。
安堂は一言でいうと、大和と河内を水路・陸路で繋ぐハブだったところ。
地球規模でいうと、ヨーロッパ~中東~大陸~半島をつなぎ、日本では北九州~瀬戸内~難波津(住吉津)~大和のルート中に位置づけられる極東・最果てのシルクロードだったところです。
古代大和の豪族は川筋ごとに領地を支配していましたが、各水の流れは最後は大和川一本にまとまり安堂に流れてきます。
奈良時代になると、安堂あたりは 龍田道 のハブとして、大和川水路の中継地から、平城京(都)と難波宮(副都心)を繋ぐ陸路の要衝に変化しました。
(地図中の駅家(うまや、津積と平群)には駅馬と云われる馬が置かれ交通利用されるようになりました)
日本の歴史において長きにわたり続いてきた水路(舟)中心から、陸路(馬)中心へ、時代が転換した現場です。
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安堂駅付近の中甚兵衛像と大和川付替二百五十年記念碑。