はじめに
古墳時代中期の #仁徳天皇期。淀川と大和川から流れ込む大量の水を制御するため全長20キロに及ぶ #茨田堤 の水路を造り #難波の堀江 を開削し広大な大阪平野(河内国)を創出しました。謎の #秦氏の姿も見え隠れします
目次
本文
新説・四天王寺のカテゴリーを始めて、四天王寺は、創建時、東を意識していた可能性を考え始めています。
大阪人の私には、四天王寺は春分と秋分の日に、西の石鳥居に沈む夕陽を遥拝する日想観(西方浄土を想念する)のイメージが強く、
さほど東(生駒山系の方向)を意識したことがなく、ある意味、発想の転換を求められています。
茨田堤(まんだのつつみ)
春分・秋分の日に、転法輪石が指す東には御勝山古墳があり、どうも『いばら、茨』がキーワードになっているように思います。
仁徳天皇期(AD313~399)*1、河内の国の治水について、日本書紀では、難波の堀江と茨田堤の二つの業績が伝えられています。
地図は仁徳天皇期の古墳時代中期に一番近いと考えられるもので、水都大阪HPから借用し、そこにラインと青文字を書き込んでいます。
①は私が考える茨田堤、②は定説としての難波の堀江です。
②難波の堀江:古代上町半島に、東西の水路を開削することで、北部の淀川、南部の大和川から流れ込む水を大阪湾(難波津)に逃し、現在の大阪平野が生まれる状況を創りました。地図に書き込んだ大阪城の北を流れる第二寝屋川~大川のライン。定説です
①茨田堤:定説では淀川の先端を起点に、古川(一級河川)を下り、現在の鶴見区今福あたりで西に向き(横堤(よこづつみ)という地名が残っています)、難波の堀江に繋がっていたというあたりまでが定説でしょうか。
これに対して、私は南の御勝山古墳の付近の『いばらの神』近くにも流路があったと考えています。
現在は大和川水系の平野川に相当する流れですが、かつてはもう少し西(四天王寺寄り)に並行した形で、猫間川(ねこまがわ)があり、その堤が茨田堤の南限ではなかったかと考えています。
そう考えると、②茨田堤の全長は約20キロにもなり、難波の堀江の開削とあわせて、日本古代史最大の治水工事であったと考えられます。
見え隠れする秦氏
このような巨大土木工事では渡来系の人々の技術力が必要でしたが、中でも 秦氏(はたうじ)の力が大きかったと考えています。
ひとつの根拠として、茨田堤の淀川起点(茨木市、茨田堤の碑)からほど遠くない所、隣接する 寝屋川市に太秦(うずまさ)の地名が残っており、秦氏の拠点であったと考えられています(京都市右京区にも太秦がありますが別)
秦氏は、この時代の淀川流域から、伏見(稲荷、上記地図では巨椋池・おぐらいけ)・山背(京都)・琵琶湖地方に進出する足がかりを得たと考えています。
本ブログのテーマはいろいろと増えるばかりですが、関連する神社史跡のリサーチの進み具合にそって、順次紹介してゆきたいと思います。
古墳時代中期 #鉄器の需要が急増。原料鉄の輸入対価として #硬玉ヒスイ が集められ韓半島マーケットに輸出。#物部氏 はサプライチェーンを支配
*1:今は触れませんが、86年の在位期間はさすがに長過ぎですね。