前回の続き。摂津河内と大和の #阿部 を繋ぐこん跡を探して #柏原市安堂 へ向かう途中の #津堂城山古墳。親子三羽の #水鳥型埴輪 が祈ったものからうかがえる #ヤマト創世 の歴史。#海人族アド #春日 #鹿島 #安曇磯良
目次
本文
前回
摂津河内と大和の「阿部」を繋ぐ「安堂」
大和川の河川敷を安堂(柏原市)まで歩いたのは、奈良県桜井市阿部(安倍寺跡、安倍文殊院)と阿部王子神社(旧安倍村、阿倍野区)を繋ぐ「何か」を探すため。
阿部王子神社の由緒である阿倍権現縁記に「仁徳天皇の古墳中期、難波に都が設けられた時(第一次難波宮)に、大和桜井の阿部氏が移住し、この地を本拠としたのが始まり」であることが伝えられています。
仏教伝来の地の碑がある三輪山の麓、初瀬川(大和川)河畔は古代には大きな水運の港(津)で、飛鳥時代には外交使節を迎える大和の玄関口でありました。
つまり、水運を支配管理した氏族の拠点が近くにあったはずで、それが阿部と考えるのは自然です。
海人族・安曇(アド)の動き
全国には海人族のこん跡として「アド」地名が存在し、阿部(安倍)もそのひとつ。
阿曇・阿積・厚見・厚海・渥美・阿積・英積・熱海(あたみ)・飽海(あくみ)・温海(あつみ)、安東・阿刀(あと)のほか、
安曇野(あずみの、長野)の穂高、安曇川(あどがわ、琵琶湖)の滋賀・志賀・安土(あづち)も含まれます。
これらの地名を「点」として、古代史の「線」を引いてゆくと、壬申の乱(672)で勝利した天武天皇(大海人皇子)の時代に確立された海人族のルートが主に三つ、見えてきます。
中でも住吉津(摂津)と大和をダイレクトに繋ぐ河内ルートのこん跡探しは、目下の私の最大テーマで、
それゆえ、古代から大和と河内の国境とされた国分(こくぶ)の柏原市安堂に注目しています。
被葬者は海人族・安曇(アド)の長!?
大阪市内から、柏原市安堂に向かって歩き、二上山が「大鳥」に見える場所に寄り道したのが津堂城山古墳。
「大鳥」を探していて、たまたま、たどり着いた古墳からは、全国的に珍しい水鳥型埴輪が出土していました。
二上山を雌雄に見立てて造られた親子三羽の埴輪の姿から「水鳥の一族」の子孫繁栄を祈ったことが想像できます。
出雲伝承は、その時の水軍のシンボル(船印)が水鳥であったと伝えます。
津堂城山古墳の築造(4世紀後半)が半島遠征の後の時代に符合すること、墳丘長二百メートルを超える大規模であることから、被葬者は水軍を指揮した海人族の長クラスである可能性があります。
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祇園祭(後祭)の大船鉾は、神功皇后の半島遠征を先導・サポートした 三海神 を御神体としています。
副将の住吉明神、舵取りの鹿島明神、水先案内の安曇磯良(あどのいそら、龍神、安曇の祖神)。
先のアド三大ルートに少し書き加えてみました。
石清水八幡宮(京都八幡市)の由緒・八幡愚童訓では、志賀神、春日明神(天児屋根命)、鹿島明神(タケミカズチ?)は安曇磯良と一体分身・同体異名とされます。
河内と大和。二上山で繋がる鹿島と春日
遠く離れた「春日」と「鹿島」ですが、実は河内と大和の端で繋がっていることがわかります。
音がよく似た柏原(かしはら)と香芝(かしば)、二つの地名。
どちらも大和二上山の麓に位置し、ドングリの柏(楢、ナラ)の木に由来します。
柏の木は「樫、oak」と書くように堅く頑丈な素材で、古代では舟材や巨石運搬(修羅)に利用されてきました。
古墳づくりの巨石運搬は海人族の得意とするところ。
食糧豊富なドングリの樹林では野生の鹿がよく繁殖します。
ご存知の通り、春日と鹿島では、鹿は神使です。