はじめに
古代難波の #住吉津(住吉の港)の様子を知りたくなり、少し遊んでみました。以前に紹介した #国土地理院 の 自分で作れる #標高図 。青色が弥生~古墳時代の海というイメージ。住吉津は入り江の大きな良港だったようです
目次
本文
古代・住吉津をイメージしてみる
濃い青色が、現在の海抜0~5m地帯で、弥生・古墳時代には浅い海、それよりも薄い色は海岸線の陸地、あるいは潟(がた)のようなところだったと仮定しています。
記事末の大阪歴史博物館の大阪平野の発展パネルと照合すると、河内湖南岸の形成状態から、弥生後期~古墳時代のころの地形というイメージです。
住吉大社あたりをさらに拡大しましたが、住吉津は入り口が狭く、奥は大きな入り江で波静かな良港 だったようです(水深が数メートルもあれば、当時の舟はOK)
住吉大社(現在の本殿域)、生根神社(いね)、大海神社(だいかい)、住吉行宮正印殿も、それぞれ、なぜそこに鎮座しているのかよくわかりますし、特に住吉大社と行宮は入り江に出入りする灯台?、また、監視所のようなものだったのかも知れません。
昨日記事のブックマークで、Green(id:shiho196123)さんが「住吉さん、貝殻が未だに拾えます」と書いてくださいましたが、それもそのはずですね。
お母さんが神功皇后、息子が仁徳天皇という、第15代応神天皇の行宮(あんぐう)と日本書紀に伝えられる難波大隅宮。その場所は不明です。
淀川河口域の大阪市東淀川区に伝承地はあるのですが、私は住吉あたりと考えています。
大きな理由として、応神天皇が海人の安曇族の海運力をリソースに、はるばる瀬戸内海からやってきて、とりあえず宮を営むなら、住吉津が最適です。
宮を置くには、大集団の飲料水と食料を確保する問題が生じますが、当時の難波・古代上町半島では、巨大交易港であった住吉津がその条件に適っています。
それに、大きな隅(スミ)で「住」「曇」に通じ、何よりも、お母上の神功皇后が住吉大社の御祭神の一柱です。
アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(連載中)