大阪市阿倍野区という地名の起源となった #阿部王子神社。#仁徳天皇 の古墳時代、ヤマト桜井から移住した#阿部氏 の #難波津 拠点でした。境外末社 #安部清明神社 境内には #海人族 としてのこん跡 古代船の錨 #鎮石(孕み石)が残されています
目次
本文
古代の海岸線と熊野街道
大阪市内の南北に走る上町台地は、古代には、東の古代河内潟と西の難波津の間に突き出した上町半島でした。
前回、阿部王子神社は、仁徳天皇の時代、大和の桜井から移住してきた阿部氏の拠点(〜江戸期の安倍野村、現在の阿倍野区)のこん跡であることを紹介しました(阿部王子神社由緒、摂州東成郡阿倍権現縁記より)
阿部王子神社は、四天王寺と住吉大社のちょうど中間に位置し、中世に熊野街道が成立した時に、九十九王子社のひとつとして数えられるようになりました。
国土地理院の色別標高図より、神社周辺は上町台地の西端に位置し、神社前を通る熊野街道は、古代の海岸線沿いを通っていたことが確認できます。
大王(仁徳天皇)の宮の近く、古代の海岸線に拠点を置いたことは、古代の阿部氏を考えるとき、最も重要なポイントになると考えられます。
安倍清明神社に残る海辺のこん跡
ちょうど二年前に紹介した近く(徒歩二分)の安倍清明神社。
その名の通り、御祭神は平安時代の陰陽師・安倍清明公、御神紋は五芒星。
境内には、清明公の産湯の井戸と、鎮石(孕み石、はらみいし)が残されています。
孕み石の案内板には「古代の船の錨 で、鎮める意から安産を祈る石となり、孕み石と呼ばれて信仰されています」と紹介されています。
鎮石は、ここが古代の海辺であったことと矛盾しない、こん跡です。
この石の存在は、阿部氏の生業と、彼らがなぜ大和の國で一大勢力になることができたのか、の想像を膨らませてくれます。
仁徳天皇が上町半島に(前期)難波宮を造営する際、大量の建設物資(木材や石材)を運ぶ必要がありましたが、阿部氏はその水上輸送を管掌していたものと考えられます。
創建前の四天王寺や住吉大社の一帯とともに、阿部氏の拠点は難波津の港湾エリアで、淡路・瀬戸内航路や紀州航路と東の河内湾(大和方面、冒頭の地図参照)を繋ぐ、重要なルート上にありました。
太陽と月と星を見る一族
安倍晴明公の家系は、先祖代々、太陽と月と星の運行を「観ていた」ことでしょう。
海人族にとって、東西(太陽と月、金星、木星)に加えて、南北、特に北(北斗七星、北極星)を観る技術と能力が必要だったからです。
(弥生時代は稲作・東西意識の時代。南北意識は日本史的には聖徳太子の時代からですが(仏教と古神道の融合。転法輪の国土統一思想)、おそらく縄文血統の海人族(アド)はそれよりもはるか以前から南北を認識していたと考えられます。)
エミシとヤマト
先日紹介した 梵珠北斗七星 のお話は、安倍晴明公の津軽伝説。(安倍晴明公の日本最北伝承)
津軽には安倍・安東氏のほか、飛鳥時代の将軍・阿部(引田臣)比羅夫など「アベの歴史と伝承」が詰まっています。
その(たび重なる)集積度に「蝦夷と大和」の隠された、あるいは、失われた歴史の「点と線」があると考えていますが、
私が阿部氏に興味を持つようになった原点は、氏の名を地名に残すここ(阿倍野区〜住吉さん一帯)から。
そして色々と調べているうちに津軽に惹かれるようになりました。
なお創作の疑いも指摘される安部清明神社の御由緒(晴明宮御社傳書)には『大彦命*1と彦太忍信命は同一人物で、両者が合体したような名「太彦忍信命(おおひこおしのまことのみこと)」で、阿倍氏の祖として記載されている。阿倍氏は氏族名を記載する際、阿閇氏(あべし・あへし、開物注)の漢字を使っていた』とも書かれている(wiki、阿部王子神社より)