目次
まとめ
3エリア #飛鳥京 #古代上町半島 #磯長谷。#古墳時代から飛鳥時代への過渡期 に登場する5代の天皇に共通する三地点の組み合わせ。その理由を考えることで、#記紀 に書かれない #飛鳥時代の謎 を解く鍵があるように思います
本文
謎だらけの飛鳥時代(592-710、Wiki)
日本の古代史の中でも特に飛鳥時代は謎だらけです。
多弁ほど疎。沈黙は密
疎は虚(ウソ)、密は真(ホントウ)と言い換えてもよいかも知れません。
記紀が成立する直前で、一番情報が多い飛鳥時代ですが、 記紀に頼っていると謎は深まるばかり。なぜならウソが多いからだと思います。
たとえば蘇我氏は重要事件にたびたび登場する「悪役」ですが、いまだに実在を証明する物証がなく、
現在でも考古学では「記紀に書かれているから、仮にいたものとして」論考をすすめる『仮説』に過ぎません。
● 蘇我馬子(敏達大王の大臣)が、上宮皇子(聖徳太子)とともに 物部氏を滅ぼした丁未の乱(587)
● 蘇我蝦夷 は、自ら門(みかど)と名乗り、息子の入鹿は山背大兄皇子(太子の長男)を自害させた(643)
● 専横をふるった 蘇我入鹿 を、中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺した乙巳の変(645)
証拠の残らない「話」ばかりです。。。(黒幕は別にいた)
そういうわけで、古代妄想には格好の対象となります。笑。
欽明系図・欽明王朝(古墳時代晩期~飛鳥時代前期)
なぜ悪役が必要だったのか
蘇我氏を考えるひとつの方法として、古墳から飛鳥時代へ移り変わる時期の歴代大王を整理してみました。
面白いでしょ。
この時期の歴代大王は、欽明大王とその息子・娘たちで継承され『欽明王朝』とでもいうべき時代でした。
しかしここに名を挙げた歴代大王は次世代を大王にすることができませんでした。
(異母)兄弟どうしのつぶし合い・・・過酷な権力闘争に明け暮れた様子がうかがえます。
堅塩姫と小姉君の姉妹の父親は、蘇我稲目(馬子の父、宣化・欽明2代の大臣)で皇統争いの直近にいました(いたことになっています)
欽明王朝歴代5王の宮・墳墓・神社
古代上町半島に集中する社
系図のほかに、もうひとつ別の情報です。
意外に思う人が多いかも知れませんが、大阪市内・現在の上町台地に、推古女帝を除く4王を主祭神とする神社が集まっています(上之宮神社は大江神社に合祀され現存しません)
これは、大もとの欽明大王が、難波に祝津宮(はふりつのみや)を置いて以来の関係かと考えています。
外交は難波(上町半島)、内政は飛鳥京(ヤマト)というすみ分けをしていたことを物語っています。
後に聖徳太子が建立した四天王寺は、上陸した外交使節団が最初に訪れる迎賓施設でもありました。
磯長谷(しながだに)に集中する墳墓
現在の大阪と奈良の県境の大阪側、「近つ飛鳥」とも言われる太子町(大阪府南河内郡)の磯長谷に墳墓がまとめられています。
考古学的には、敏達大王墓とされる太子西山古墳(墳丘長93m)が、近畿の巨大前方後円墳の最後と考えられます。
先日、石舞台古墳(用明?)と都塚古墳(推古?)を紹介しましたが、いったん明日香に埋葬された二人の大王は、後に磯長谷に改葬されています。
● 用明大王(日本書記):用明二年(587)4月に没しその7月に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られ、推古元年(593)9月に「河内磯長陵に改め葬りまつる」
● 推古女帝(古事記):「御陵は大野岡(おおののおか)の上に在りしを、後に科長(しなが)の大陵に遷(うつ)しき」
三点で見えてくるもの
飛鳥京と古代上町半島、そしてほぼ中間の磯長谷。
古代豪族『X』
この三点理解で、飛鳥時代(前期)の謎、そして蘇我氏という名に替えられた古代豪族に繋がる史実が見えてくると考えています。
なぜなら磯長谷あたりはその古代豪族の拠点だったと考えられるからです。近つ飛鳥と呼ばれた理由。
今は、いくつものかけらを集めて、ぼんやりとした焦点で歴史の景色を眺めている感じです。
(シリーズとして不定期に紹介します。情報不足のため次回未定。)