ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【日出処の国】外国使節団は難波津から【生駒の大鳥】を見る

はじめに

古墳時代中期以降、西の難波津に面した上町半島(現在の上町台地)は、外交使節団を迎え入れる国際港湾都市でした。この地に都、大寺、城を築いた人たちは、共通して生駒(大鳥)の景観を重視しました

目次

本文

外国使節団受け入れる国際港湾都市【難波津と難波宮

前回からの続き。

www.zero-position.com

古墳時代の中期以降、当時、西の難波津(なにわのつ)に面した上町半島(現在は大阪市内の上町台地)は、大陸や半島からやってくる外交使節団を迎え入れる国際港湾都市でした。

海退と沖積による大阪平野の成立(①縄文中期、②弥生中期、③古墳時代中~後期、④現在)赤丸は大阪歴史博物館。白丸は四天王寺の東に1.5キロの御勝山古墳

法円坂交差点歩道橋より。正面が大阪歴史博物館、右に大阪城。②大阪歴史博物館前の前期難波宮時代の屯倉(とんそう)の復元。2021年初日の出

大阪歴史博物館の建物に窓が見えますが、その中のひとつから撮影したのが下の写真。

難波の地に、都(難波宮)や城(豊臣期、徳川期)を築いた人たちが、歴史を超えて、いかに日が昇る生駒(大鳥)の景観を重視していたかを示す写真です

(もともと、写真左下にあった生國魂神社(元宮)の創建は紀元前後・弥生時代と推定されます)

仁徳天皇の難波高津宮は、上町半島にあったのは間違いないですが詳細な地は不明。諸説ありますが、近年、難波宮が最有力候補地です)

大阪歴史博物館から東~東南。大阪城~生駒(大鳥)~難波宮

生國魂神社跡から、大阪城のお濠の向こうに生駒の大鳥

かつての難波津の海辺のこん跡。法円坂交差点(谷町四丁目駅)から西の本町方面に向けて緩やかに下って行く

www.zero-position.com

日出処の国の威容を見せつける海辺の【四天王寺の伽藍】

難波宮よりも南に約3キロにある四天王寺

創建当時は、難波宮と同じく、上町半島の海に近いところに位置し、やはり、東西の太陽の道から考えて、生駒(大鳥)の景観を基準に建立されていると考えてよいでしょう。

摂津・河内平野 二本の【太陽の道】

絵はデフォルメされていますが、北からみた古代上町半島(平安時代)。五重塔四天王寺は、西(右)にひろがる難波津の近くの大寺でした(熊野古道曼荼羅久保田晃画、永田屋昆布店さん謹製・八軒屋))

四天王寺は海辺の大寺だった(平安時代熊野街道図)

www.zero-position.com

大宰府を通り、瀬戸内海を明石海峡からやってきた外交使節団が、難波津に近づくと、四天王寺五重塔と金堂が、否が応でも目に入ります。

背後には、生駒山(大鳥)が見える視点です。

春分秋分には、大鳥の頭から太陽が昇る構図・・・太陽を背に飛びたとうとする大鳥を背景に、新しい国づくりの象徴である金色が輝き、朱が美しい建築伽藍。

日出処の国 を演出するのに、これほど壮大に計算された構図は他にあるでしょうか。

こういう視点で考えていると、飛鳥時代飛鳥 とは、生駒の大鳥(天照山)のことかも知れないと、考えるようになっています。

飛鳥時代 飛鳥京と古代上町半島のつながりのこん跡

www.zero-position.com

PVアクセスランキング にほんブログ村ポチっとお願い