はじめに
古墳時代中期以降、西の難波津に面した上町半島(現在の上町台地)は、外交使節団を迎え入れる国際港湾都市でした。この地に都、大寺、城を築いた人たちは、共通して生駒(大鳥)の景観を重視しました
目次
本文
前回からの続き。
古墳時代の中期以降、当時、西の難波津(なにわのつ)に面した上町半島(現在は大阪市内の上町台地)は、大陸や半島からやってくる外交使節団を迎え入れる国際港湾都市でした。
大阪歴史博物館の建物に窓が見えますが、その中のひとつから撮影したのが下の写真。
難波の地に、都(難波宮)や城(豊臣期、徳川期)を築いた人たちが、歴史を超えて、いかに日が昇る生駒(大鳥)の景観を重視していたかを示す写真です
(もともと、写真左下にあった生國魂神社(元宮)の創建は紀元前後・弥生時代と推定されます)
(仁徳天皇の難波高津宮は、上町半島にあったのは間違いないですが詳細な地は不明。諸説ありますが、近年、難波宮が最有力候補地です)
日出処の国の威容を見せつける海辺の【四天王寺の伽藍】
創建当時は、難波宮と同じく、上町半島の海に近いところに位置し、やはり、東西の太陽の道から考えて、生駒(大鳥)の景観を基準に建立されていると考えてよいでしょう。
絵はデフォルメされていますが、北からみた古代上町半島(平安時代)。五重塔の四天王寺は、西(右)にひろがる難波津の近くの大寺でした(熊野古道曼荼羅(久保田晃画、永田屋昆布店さん謹製・八軒屋))
大宰府を通り、瀬戸内海を明石海峡からやってきた外交使節団が、難波津に近づくと、四天王寺の五重塔と金堂が、否が応でも目に入ります。
背後には、生駒山(大鳥)が見える視点です。
春分・秋分には、大鳥の頭から太陽が昇る構図・・・太陽を背に飛びたとうとする大鳥を背景に、新しい国づくりの象徴である金色が輝き、朱が美しい建築伽藍。
日出処の国 を演出するのに、これほど壮大に計算された構図は他にあるでしょうか。
こういう視点で考えていると、飛鳥時代の 飛鳥 とは、生駒の大鳥(天照山)のことかも知れないと、考えるようになっています。