ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【三種の神器・雑考(3)】八尺瓊勾玉は古代難波で造られた!?【敏達の五条宮 × 玉作部】★★★

まとめ

敏達天皇の和風諡号は #渟中倉太珠敷天皇 ヒスイ大玉の宮にすむ天皇という意味。渟中倉太珠(ぬなくらのふとたま)が #八尺瓊勾玉 であるなら #古墳時代末期 の #古代難波 で造られた可能性も? #五条宮 #難波玉作部 #難波祝津宮

目次

本文

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

三種の神器の成立時期を考えるひとつの手がかりが、産地と製法が類推できる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。

名前からして大きな勾玉で、もちろん、糸魚川産の最高級品でしょう。

「八尺(やさか)」というのは、八咫鏡の「八咫(やた)」と同じく「大きい・巨大」という意味で、大玉ヒスイを加工できる職人集団は、当時の日本でも所在地が限られていました(ヤマトの曽我川奈良県橿原市忌部町)、難波の玉作部(大阪市中央区玉造、八尾市神立))

第30代敏達大王 点と線★★★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

八尺瓊勾玉は、第30代敏達大王(もしくは第29代欽明大王)の代で造られたものと推理しています。

まず、敏達大王の和風諡号(和式のおくり名、しごう)が、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらぎのみこと)であること。

『ぬなくら』はヒスイの採れるヌナカワ(奴奈川または沼河、現在の糸魚川)をイメージさせ、その上、太珠(ふとたま)です。

万葉集では『珠敷く(玉敷く)』はお客様を迎える邸宅を意味する、つまり、

● 『渟中倉太珠敷天皇』は『ヒスイ大玉の宮にすむ天皇』といったほどの意味になります。

ほかにいくつかあります。

● 渟中倉(ぬなくら)は住吉大社大阪市住吉区)の創建話に登場する地名で「住吉津」は西暦100年代以降、半島(大陸)との交易港でした(特産・ヒスイ加工品の輸出-鉄原料(鋳鉄)の輸入ビジネスはピークが400年代)

● それゆえに、古代上町半島にはヒスイ加工の職人集団・玉作部がいた(大阪市中央区玉造。物部氏直轄)

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● その玉造岡(現在の玉造稲荷神社)の近く(徒歩20分)に、若き敏達の五条宮(ごじょうぐう、大阪市天王寺区真法院町)があった

● 五条宮は、敏達が皇太子時代に居住したところと伝承され、遅くとも、お父上の第29代欽明大王の時代に造営されている

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● 敏達にはもうひとつ、訳語田幸玉宮(おさださきたまのみや、伝承地:桜井市戒重、春日神社)があり、この大王は「玉」とともに移動していたことが窺える、などです。

最後の点に関して、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は天皇の宮(天皇自身またはその居られるところ)に帰属するものであるらしく、ゆえに、八尺瓊勾玉が今でも皇居に置かれている理由かも知れません。

難波祝津宮(欽明)と五条宮(敏達)

お父上・欽明大王の宮のひとつが難波祝津宮(なにわのほおりつのみや)。所在地は不明です。同宮跡と伝承される地が兵庫県尼崎市にありますが、欽明の古墳時代、そこはほぼ海の底、よくて広大な湿地帯の中。官人も含めて安全で豊富な水を確保できない所に大王の宮が造営されることはあり得ません。

私は、難波祝津宮は、五条宮あたり(現在の天王寺区役所、四天王寺の近く、日羅公の将軍地蔵尊もある)と睨んでいます。この点は本記事のテーマから少し外れますので、また別に紹介したいと思います。

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ここで書き出した「点」をつないでみると、八尺瓊勾玉が古代上町半島で造られた「線」が見えてくる。。。少なくともその可能性はゼロではありません。

そして八尺瓊勾玉の完成を以て、それより以前から伝えられてきた剣や鏡とともにアイテムがそろい『三種の神器』が成立するとともに、その意味付けのために『イザナギ三貴子神話』が成立していったものと妄想しています。

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世界最古のヒスイ製 敲(たたき)石(大角地遺跡、新潟県、縄文前期)

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