橿原市今西町 #今西家住宅。#笏谷石(緑色凝灰岩)の流し台。濡れると鮮やかな浅葱色(あさぎいろ)に変わる石は #ヲホド王(#継体天皇)が支配した #足羽山(福井市)特産。笏谷石で造られた勾玉などの玉類が近くの #曽我遺跡(玉作工房跡、古墳時代後期)から出土しているのは歴史の偶然でしょうか
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今西家住宅(橿原市今井町)の片隅で
前回紹介した今西家住宅(奈良県橿原市今井町)の展示スペースの片隅に井戸とその側に石造りの古い流し台を見かけました。
井戸は織田軍と戦った時の水源となったそうです。

石造りの流し台には神棚が置かれており、横に案内書き。
「(維新直前の江戸末期)越前藩主(福井県)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)から贈られたもので笏谷石(しゃくだにいし)製」と書かれています。

ふくいブルー・笏谷石(しゃくだにいし)と継体天皇
水に濡れると独特の青緑、いわゆる浅葱色(あさぎいろ)を発する緑色凝灰岩の中でも、福井市の足羽山・北西山麓の笏谷で採掘「されていた」高品質なものを笏谷石といいます。(環境と資源保護のため1999年に採掘終了。現在は流通が少なくなっています)
確かに流し台の側面のところどころに青緑色が見えますね。

ちなみに浅葱色とは先日紹介したアサギマダラの青緑色です。

笏谷石はヲホド王・継体天皇(第26代、古墳時代後期)が発見したと伝えられています。

古代三国(みくに)の平野を眺める足羽山の継体天皇像は笏谷石で造られています。
当日(2021年10月)は大雨でしたが、おかげで笏谷石の青緑(ふくいブルー)が鮮やかでした。
継体期の巨大玉造工房・曽我遺跡(そが、橿原市曽我町859)
継体天皇と笏谷石の歴史は、今井町にも近い古墳時代後期の曽我遺跡の出土物から類推できます。

曽我遺跡(そがいせき)はちょうど継体期にあたる5世紀後半〜6世紀前半に営まれた日本で最大級の玉作りの集落でした。
(橿原市HPコピペ)滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方から持ち込まれ、玉類が生産されていました。玉類の完成品・未製品、さらには玉を研ぐための砥石、玉に穴をあけるための舞錐状(まいきりじょう)木製品などといった、玉造りに関わる多量の遺物が出土しています。ここで作られた玉類は勾玉、管玉、丸玉、切子玉、小玉など多くの種類が確認されています
橿原市考古学研究所によると、1981年の橿原バイパス(国道24号)の建設時から2018年までに5回にわたる発掘調査が行われ、調査地からは土嚢で15000袋分の石加工品が運び出されたそうです。(現在もなお基礎分析段階、史料のデータベース化が進められている段階のようです)
曽我遺跡には、北陸(越前=三国)の緑色凝灰岩 や糸魚川ヒスイ(越の国)のほか、和歌山(紀の国)の滑石、島根(出雲)のメノウ・碧玉、千葉(下総)の琥珀などが大量に集積され、流通宝飾品として加工されました。
「北陸の緑色凝灰岩」というのが笏谷石(緑色凝灰岩は比較的ありふれた鉱物ですが、加工性や美観の点から最高品質とされたのが笏谷石)

出雲伝承によるとヲホド王は出雲王家の次男という出自で、三国(越前)に婿養子として入った後、日本海の海運交易で繁栄した人物(海運王)だったとされています。
政争で後継が不在となった中央(大伴金村おおとものかねむら・物部麁鹿火もののべのあらかい)に請われ、60歳近くなってから継体天皇として即位します。
即位後十数年をかけて大和にやって来ますが、
大和での拠点となった曽我遺跡の全国の素材を集めた「玉造工房センター」というべき産業的なあり様は(貨幣社会以前の貨幣に近い概念としての)玉類の生産・流通を通じて王権(権威と財政)を強固にしようと考えた継体天皇のビジネスマン的な性質がよく表れていると考えることができます。
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戦国時代の柴田勝家や越前を支配した朝倉氏に愛された「ふくいブルー」は、石材・石塔として神社仏閣や屋敷に使われました。
さて、今西家に笏谷石の流し台を贈った松平春嶽公は、越前と橿原が古代に継体天皇の玉作りで繋がっていたことを知っていたのでしょうか。
展示場の片隅に置かれた「もの」から始まる古代妄想 … 止まりませんね😀