はじめに
ヲホド王(男大迹王)と称された #継体天皇。子孫を多く残した人で、第27代 #安閑天皇、第28代 #宣化天皇、第29代 #欽明天皇 のお父上。#聖徳太子 は欽明大王の孫ですから、継体天皇は太子の曽祖父になります
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滋賀県高島市(安曇川、あどがわ)
滋賀県高島市に行ってきました(大阪駅から湖西線・新快速で安曇川駅まで直通で約1時間)
衛星マップでみると、琵琶湖北西部に注ぐ安曇川(あどがわ)の沖積平野が琵琶湖の方に広がって発展したことがわかります。
たいへん惹かれるところで、日本海と京都・奈良・大阪をつなぐメインルートで、中でも安曇川流域の高島市エリアは、かなりふるい時代から、交易・交流の一大拠点として発展したことがうかがえます。
第26代継体大王(ヲホド王)
特に、福井県とともに、第26代継体大王のゆかりの地(現在の高島市安曇川町三尾里あたりで誕生したと伝えられる)で、関連する史跡が多く残されています。
「えな」とは「胞衣」と書き、出産時の胎盤やへその緒のこと。昔は土に埋め、出生を祝うスタイルがありました。
ヲホド王(男大迹王)と称された継体大王は、クニの開発と水運に才覚を発揮したビジネスマンで、本来は成功した一大豪族の長として人生を終えるはずでした。
しかし子どもを残さなかった第25代武烈大王の後継として、中央から、いわば緊急登板を要請され、日本の皇統を(かろうじて)つないだ異色の人で、ゆえに、大王(天皇)に即位したのは58才でした。
継体大王の名をさらに高めたのは、治世の当時、ヤマト王権に対抗して、新羅(しらぎ、半島の国)と密約の上、九州勢力が起こした大規模な『磐井(いわい)の乱、527年』を苦労の末、平定したことです。
安閑・宣化・欽明 三人の大王のお父上
子孫をたくさん残した大王でもあり、第27代安閑大王(母上は尾張目子媛)、第28代宣化大王(同・尾張目子媛)、そして、第29代欽明大王(同・手白香皇女)のお父上でもあります。
父親が高齢で即位したため、若いころの二人の息子、安閑大王(466年生まれ)・宣化大王(467年生まれ)の治世は短く、
二人を継いだ欽明大王(509年生まれ)が約30年にわたって基盤を築き、その後の飛鳥時代(前半)の主役級を子孫として残します。
実は私はこのあたりの経緯(二代の治世の短さ)について、はなはだ疑問(不審)に思うところがあり、その点は、機会をつくって少しずつ紹介してゆきたいと思います。
継体大王と聖徳太子
あまり広く認識されていませんが、継体大王は聖徳太子の曽祖父(ひいおじいさん)ということになります。
聖徳太子は、曽祖父を厚く崇敬し、例えば、新しいクニ造りや水運を活用した国際交易・交流において、おおいに参考にしたのではないかと考えています。
ミッシングリンク(失われた輪)
継体大王の事跡は、越前福井~高島市~淀川流域(樟葉宮、筒城宮、弟国宮、三嶋藍野陵 or 今城塚古墳)と続きますが、
ここから磐余玉穂宮(いわれたまほのみや、奈良県桜井市)、曽我遺跡(同橿原市)など、いきなりヤマトに飛びます。
順番では、私の地元、上町半島(上町台地)に、継体大王にかかわる史跡のひとつでも残っていそうなものですが、、、。
可能性として、継体大王は水運の人ですから、現在の大阪湾岸(住吉を含む)をトバシテ、大阪と和歌山県境・紀の川を遡上して御所(奈良県)から入るルートが考えられます。
実際、飛鳥時代には、このルートを通じて、六甲山系の巨石(花崗岩)が、京(みやこ)に運びこまれました(益田の岩舟など)
でも、それにしてもです。古代日本でもトップクラスの良港であった住吉を、継体大王が利用しなかったはずはありません。
本当に、この点は謎です。
その代わりに、といえるかどうかわかりませんが、継体大王の子孫たちがひらいた飛鳥時代の史跡は、四天王寺をはじめ、上町台地にはたくさんあります。(蘇我氏はゼロですが。)
高島市はしばらく通おうと考えています。当ブログでは、折を見て(不定期に)継体大王の足跡を紹介してゆきたいと考えています。