まとめ
日本古代史で #継体天皇 #ヲホド王 は中興の祖と言えるでしょう。善政を行ない今でも北陸の人々の誇り。治水を始め #クニ造り #水運 に長けた大王で今風にいえば実業家の顔を持っていたようです。北陸・琵琶湖(近江)・淀川・難波・飛鳥京を繋ぎました
目次
本文
日本書記によると、第26代継体大王は、先代の武烈大王に後継ぎがなく、皇統をまもるため、当時の大臣、大伴金村(おおとものかねむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)、巨勢男人(こせのおびと)らによって越前の三国(みくに)(現在の福井県)より迎えられた異例の大王です。
(第15代応神天皇の5世孫と伝えられていますが、その真偽は不確かで異説もあり、現在に続く天皇家の始まりを継体大王とする考え方もあります)
クニ造りと水運で成功したビジネス大王
北陸一帯を拠点に、治水によるクニ造りと海運で成功した、今風にいうなら「ビジネス王」で、その手腕を買われて、中央からお声がかかったという説明がわかりやすいでしょうか。
石碑文)継体天皇は御名を男大迹皇子(おほどおうじ)と称し、御即位に至るまで数十年間、当国越前に潜龍しましたが、その間、越前平野の治水を講じ、笏谷山(しゃくだにやま)の石材採掘を勧めるなど、民治に深く意を用いられたので、国人長くその御事績を景仰している。この石像は天皇の遺徳を追慕し、明治十六年福井地方の石匠ら(途中省略)が建立したもので、石材は天皇に所縁のある笏谷石を用い、石造の向きは治水に際して水門を開かれたと伝えられる北北西の三国港をはるかに望んでいる(以下省略)
福井県民、北陸の人たちの誇り
石碑文にも書かれていますが、善政を行ったヲホド王は、福井県民、北陸の人たちの誇りで、今でもたいへん人気があります。
古事記によれば、8人の后との間に19人の子宝に恵まれ、その中から、第27代安閑大王、第28代宣化大王を輩出しました。
また、ヤマトの大王に迎えられる条件として、第24代仁賢大王の娘を娶り、その手白香皇女(たしらがのひめみこ)は第29代欽明大王を生みました。
先日紹介した通り、欽明大王は敏達(第30代)・用明(31)・崇峻(32)・推古女帝(33)の父上として、後の飛鳥時代に繋ぎます。
北陸~琵琶湖(近江)~淀川~難波~飛鳥京(ヤマト)の道。キーワードは水運
西暦507年、57才で樟葉宮(くすはのみや、現在の大阪府枚方市)で即位し、約5年の後、山背国筒城宮(つつきのみや:京都府京田辺市付近)、さらに後に弟国宮(おとくにのみや:京都府長岡京市付近)に移り、即位から20年後にヤマトの磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、奈良県桜井市)に入ったとされます(82才で没)
ヤマト入りが遅くなったことに諸説がありますが、私は日本海ビジネス(海外交易を含む縄文以来の日本海ネットワーク)を拠点に、宮を置いた各地でクニ造りに取り組みながら、遷都していったことも大きいと考えています。
難波と飛鳥京の関係の始まり
先日の記事で、欽明大王が難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)を置いたことが難波と飛鳥京の関係の始まりと紹介しましたが、そもそもの始まりは継体大王です(大阪市内に継体大王の史跡はありませんが)
日本書記には、息子の安閑大王が「難波の大隅島と姫島松原」に牛を放牧させたという記述があり、その間接的な証拠となるでしょう。