出雲 #下照姫 考察の続き。大和葛城(御所市)の長柄神社は #姫の宮 として下照姫を祭ります。近くの #名柄遺跡(弥生時代)には初期型の銅鐸と銅鏡がセットで埋納されていました。長柄神社から遥拝する水越峠に #天水分神 #国水分神 を祀る葛木水分神社。それらの「点」を繋いでみました
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クニとヒトの誕生と成長を見守る
下照姫(したてるひめ)の大和と河内での動きを考えてみたいと思います。
下照姫と天稚彦(あめのわかひこ)の夫婦は、義兄のアヂスキタカヒコネに伴って、最初に大和葛城(長柄神社あたり、ながら)に移住し、
やがて古代河内湖畔の味原(天王寺区、産湯稲荷神社あたり)に宮を構えたものと推定すると、出雲伝承と古事記(葦原中國)の記述の辻褄があってきます。
木股姫の名の通り、私が「大鳥」と呼ぶ二山の麓、扇状地の要(かなめ、股)に、長柄神社(姫の宮)を置きました。
一帯に広がるカツラギ稲作地帯の「クニウミ(国生み)」を祈る下照姫の姿は、安産と子育てもつかさどる姫巫女の姿と重なります。
いずれも「水」が重要な要素で、クニウミでは治水、出産では産湯(井戸)であり、下照姫の水神としての神格が二重に形成されたいきさつが伺えます。
長柄神社から眺める二山(ふたやま)、「葛城の大鳥」の峡谷部が水越峠(向こうは大阪)ですが、ここに葛木水分神社(かつらぎみくまり)が鎮座します。
4年前に参拝した時は、二柱の御祭神(天水分神(あまのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ))の意味がよく分かっていませんでしたが、
前回考察(石切劔箭神社の水神社の案内板からの考察)により、
天水分神が下照姫ならば、
国水分神は天稚彦ということになり、
夫婦で祀られていると考えることができます。
銅鐸の姫巫女
長柄神社からすぐ近くの名柄遺跡(ながら、弥生時代)からは初期型の古銅鐸と古道鏡が出土しています。
埋納された初期型の銅鐸と多鈕細文鏡がセットで出土した例は珍しく(他に類例がなく)、「姫の宮」と呼ばれたという長柄神社との近さと同時代という関係性から、下照姫との関係が濃厚です。
銅鐸は水の恵み(国生み)と子孫繁栄(五穀豊穣)を祈る祭祀具として、王統の姫巫女・下照姫が「鳴ら」したのでしょう。(下照姫は大国主の娘、出雲伝承)
銅鐸は後の古墳時代ごろに鈴に変わり、今でも鈴は神社の重要な祭祀具です。